<日豊ぶらりぶらり>
<日出、恐るべし> 2024.04.07
別府市に隣接する人口三万人にも満たない小さな町である。ただ眼前の別府湾の絶景には息を呑む。
二階堂美術館で開催されている「田園風俗と田園風景」のコレクション展に行って来た。近代日本画家による「田園趣味」の絵画展である。一世紀近くも前の日本で既に画家達は田園を描く事で「自然への畏敬や豊穣の喜び、静かなやすらぎ」、などの様々な思いを託した。まさに「豊後の國佐伯」の世界ではないか。急速な都市化や工業化に対するアンチテーゼでもあろうが、現在の日本においては更に田園回帰の意味は深まっている気がする。
「自然が宿す豊かな生命力、人と自然とが共生する光景」は人間性回復の良薬であろう。幼い頃に体験した身近な風景が変貌していく事への「郷愁や哀惜の念」もまた現代においてはより濃くなっている事は間違いない。この日はコレクション展の最終日でもあり朝一番で駆け込んだが、ただ一人の独占状態でたっぷり堪能出来た。もっとも知人に譲って貰ったチケットがきっかけであるから大層な事は言えない。
最大の関心は町の背後に聳える「鹿鳴越連山」、あるいは別府湾越しに見える高崎山のいずれかに登る事にあった。いずれも山城跡がある。鹿鳴越はフランシスコザビエルが布教地山口から大友宗麟に会う為に越えた場所でもある。
ただ、ここまで来て「日出城」を見ない訳にはいかない。豊臣一族に連なる「木下延俊(秀吉の正室おねの甥)」を藩祖とする城下町である。細川忠興が縄張りを行った。日出はその旧領地でもあり妹は延俊の正室でもある。
豊後佐伯氏の最後の当主惟定の弟惟寛が仕官した「足守藩」は延俊の父「家定」が藩祖である。惟寛の子孫に緒方洪庵が、家定の末裔に歌人木下利玄が出た。利玄は佐伯にも来ている。だから日出の事は元々気にはなっていた。
物語性にも富む。「豊臣秀頼の遺児国松」のこの地での生存説である。日出藩三万石の内、五千石を分知され立石藩を立藩した伝承譚がある。「日出藩主一子相伝」によると意味深である。この地は豊後三賢の一人、「帆足万里」も排出している。作曲家瀧廉太郎の父親の生地でもあるらしい。
その日出城は別府湾が一望出来る海岸断崖の絶景地にある。桜が満開であった。近くには鹿鳴越連山を超えて来たザビエルが宗麟に拝謁する為に沖で待つポルトガル船まで浜出した場所がある。本丸には日出小学校、二の丸には日出中学校が立っていた。この絶景と豊かな歴史に育まれたこの子達の母校愛、郷土愛の度合の深さを想像せざるを得ない。羨ましい限りである。
生憎の雨曇りと見学場所の多きと一期一会の会話が弾んで山行はまたの機会にする事とした。日出、恐るべし。
<壊れない道は美しい道> 2024.02.23
自伐型林業の”路網(作業道)”を表現した言葉である。「自伐型林業」が営まれる山は「癒される美しい森」を作り、そこに張り巡らされた路網(作業道)は「壊れない美しい道」として永続性を確保し、総体として「歩く道」に繋がっていく可能性を秘めている気がする。
縁あって熊本県南小国町に自伐型林業フォーラム「小さな林業の大きな可能性」を訪ねた。途中、遠く涌蓋山(1500m)が聳えて見える「北里柴三郎記念館」に立ち寄った時、そこで見た見事な”お手植えの杉”が何だか暗示的であった。
この林業は「中山間地域(中間農業地域と山間農業地域)」再生の切札としての可能性が高い。ただ行政にとっては未だ馴染みが薄く、特に「既存林業との折り合い」が難しそうである。だから国にその支援制度が整っていない段階にも関わらず、これを地域再生手段の一つとして位置付けるこの町の姿勢は注目に値する。地域再生への危機意識の高さを垣間見る思いである。
今回紹介された自伐型林業を支援する「鳥取県智頭町」、「高知県佐川町」など、いずれも知恵を絞り独自の生存戦略を推進し奮闘している印象である。これらの町は奇しくも「平成の大合併」に乗らずに「単独行政体を維持」している共通点がある。
もう一つ印象深かったことは、現行林業での就業者が減少する中、参加者に自伐型林業を生業に選んだ若者達(特に移住者)の姿が目に付いた点である。森林比率の高い地域にとって注目したい変化ではなかろうか。
さて、驚くべきは「山林崩壊」と「土砂災害」の九割超は現行林業による”皆伐”によるものとの報告である。確かに山歩きをやっていると役目を終えた林道が崩壊し山林が無惨な傷跡を晒している光景に至る所で出会う。「ユネスコエコパーク指定地域」であるにも関わらず「傾山」に登った時のその道程での光景は目を背けたくなる程であった。
現行林業側の見方を欠いているので軽々な判断は慎むべきであるが、フォーラムは「自伐型林業の本質」に一歩近づけてくれた意義深い内容であった。
別稿(ふるさとの人々)<老木>2024.0125
<物語の漂うところ> 2023.06.14
かつて佐伯地方にあって、四浦半島、大入島、戸穴、狩生は「標野」と呼ばれていた。標野とは、本来、天皇の料地で立ち入りを禁止された原野の事をいう。狩猟に利用される事が多い。
そのゆえか特に戸穴や狩生には独特の地名が残っている。戸穴に劣らず今回訪れた狩生も意味深長な地名で溢れていた。古くから「佐伯院(官倉)」が置かれた土地とも比定されてきたように政治の中心地だった可能性もあるいわくつきの土地なのである。
地元の史談会の方々にその「狩生」とこれに隣接する「車」を案内して頂いた。西隣の八幡(戸穴)については既に半年前に探訪済みでその延長戦である。(標野行き、2022.12.11)
「彦島」やその先に「大入島」を臨むこの地域一帯の海は水深が深く入り江も穏やかで大型船も容易に航行出来る。良港に恵まれる。かつて人々は水軍力としても駆り出された。大手造船所があるのも必然である。
それだけに歴史を遡ると海の勢力の侵入を容易にした海でもあった。古くは「天慶の乱」の「佐伯是本」や「桑原生行」の乱暴狼藉、「大内水軍」の侵攻を受けた。それはここに何か重要施設のあったことを窺わせる証左でもあろう。
狩生地区の海岸線は遥か昔は今より陸側に深く入り込んでいた。旧道がその線上に残る。そのかつての入り江の西の端に「兵頭鼻」と呼ばれる山裾がある。元は岬だった事を地勢的にも示している。伝承であるが天慶の乱で桑原生行が首を刎ねられた場所によるものではなかろうかと。
近くに「ボウコウ」という地名も残る。何者かが暴行狼藉を働いた事に由来するに相違ない。酷い仕打ちを受けない限りそのような地名は残らない。天慶の乱、大内水軍の侵攻が発端となったものと素直に信じたい。
狩生の谷あいを遡ると「古寺」と呼ばれる地に出る。地元ではここが佐伯院のあった場所と考えられている。狩生の中心地である。更に遡ると「御所の原」がある。小高い見晴らしの良い場所でその古寺を一望出来るはずである。高貴な支配者の住んだ土地を思わせて興味深い。「安徳天皇」が住んだとも南朝の「懐良親王」が住んだとも噂されてきた。「八百年の確執」もそこに伝わる。「野々下氏」が支配者としてこの地に入ってくるまでは平家の落人の末裔達が住み、その長い軋轢の時を刻んできた為らしい。今もその野々下氏の子孫が辺りに住む。
見上げると彦岳が白煙の中に神々しく浮かんでいた。彦岳の存在は何かにつけて人々へ心的影響を及ぼしたに違いない。また、標野に選ばれた背景でもあるような気がしてきた。山麓の豊かな森林には鳥獣が溢れ、尽きることの無い水源が保たれ、木材調達や数々の物資生産の材料に不足する事はなかったに違いない。標野として皇室への貢納物の生産に相応しい土地だったと言うことが出来る。カリグラ(狩座)、ムクロージ(紫染料の材料)などの地名がそれを示している。
山を隔てて東隣に「車地区」がある。「石田一族」が娘を欲しがる故地の豪族から逃れる為、車を引き引き各地を転々として辿り着いた安住の地である。車の地名の由来の一つである。今でも殆ど石田姓である。土地の中程に見事なビャクシン(樹齢約350年)の大木が三本、立っている。天然記念物に指定されないのが不思議な位の圧倒的な存在である。いずれも私有地にあり保護が及んでいない。この大木もまた「石田一族物語」を構成しているのである。
狩生はさして広大な土地ではない。それでも物語をいくらでも紡ぎ出す材料に事欠かない地名と伝承に溢れていた。因みに狩生は「太閤検地」の際に偶々代用されたことが発端でこの地の総称になった。ボウコウが採用されていたならさぞかし世に持て囃されたに相違なく大変な商機を逸してしまったものである。
<霊験> 2023.06.07
柴田姓ルーツ探しは終わってはいない。こっちが火を点けてしまった「大入島三兄弟」の分住先の一つ「坂の浦」の柴田氏から突然電話を得た。直川仁田原の「黒沢地蔵尊」に縁あって、そこで柴田姓情報を見つけたと言う。
ここの和尚とは半年前に面識を得ている(<和尚に一喝>2022.11.29)。不思議な縁が繋がっていく。和尚はともかく奥さんにはいつか御礼に伺わねばと気にはなっていた。前回、帰り際に美味い「鶴見産の鯵」を手土産に頂いていた。
縁があれば和尚は待っているはずだ。確認もとらずにふらりと出掛けた。丁度、車で出かけようとしていた奥さんが和尚はいるからと車中からそっちを指差した。
勝手口から上がり込んで気づいた時には三時間が過ぎていた。それだけ居座ると奥さんも外出先から帰ってくる。和尚に飯を食わせる時間が迫っているだろうと、これを口実に腰を上げた。
相変わらず和尚の口は減らない。それに昨今、このように煙草を吸う人物を知らない。三時間、喫煙が一切途切れない。無論、話も途切れない。
話題は佐伯地方の檀家と檀那寺の裏面に終始して、肝心の柴田姓情報は期待したほどのものでもなかった。裏面は生々しくて披露はしない。ただ、夫妻が語るこの地とその家に顕現する霊魂を一笑に付す訳にはいかなくなった。数々の摩訶不思議に思わず膝を乗り出した。
霊魂が顕現するところには霊力が宿る。そこに神仏の加護を求める施設が出来る。佐伯地方では、例えば彦岳、尺間嶽、石鎚山などであろう。いずれも「大地の気」が集まるところである。ただ、神仏を信じる心が不在だと霊魂は我々の前には顕現しない。
さて、本来、修行による「霊力の獲得」があった者しか高位の仏僧にはなれない。昨今の寺院にそういう人材は失せた。葬式仏教の隆盛とともに寺院から霊魂が消えたのもむべなるかな。そういう話である。因みに霊峰尺間嶽には今は「大地の気」が消えているそうである。この山には”世俗”の神社が三つもある。神職の霊力や如何である。
そう言えば、宇佐市院内町の「平家七人塚」を守る門脇氏に見せてもらった「龍の顕現」写真が忘れられない。氏の家に事ある毎に龍神が顕現する。物理的には証明し難い現象である。それでも天井から龍が降りてくる写真はとても偽造にも思えず不思議な現象を認めない訳にはいかない。夫妻もそれを当然の如く肯定する。
最後にこの地に伝わる「かっけんどん」(意味や当て字を夫妻も知らない)の伝承を伺った。旧直川村史の伝承譚にも載っていない。今も山中に祀る「奥の院(岩窟)」から神仏三体が三ヶ所に飛翔した。そのうちの一つが降り立った地が黒沢地蔵尊の起源である。他の二箇所も近くにあるにはあるが今は寄る辺ない。そういう伝承譚もやがて人知れず消えていく運命にある。
仁田原上ノ地にある「正定寺」は、元は近くの赤木中津留にあったが焼失した。曰く、そこはその結界にあたる。その上流が赤木吹原で怨霊と化した佐伯惟治を祀る「富尾神社」がある。
神仏を信じ敬う心が無くなると人間が貧しくなる。どうもそれだけは本当のような気がする。
帰り際に今回は「鶴見産の鯵」の代わりに禅問答を投げ掛けられた。「廓然無聖(かくねんむしょう)」、梁の武帝の問いへの達磨の返答である。そういう境地に至りたいものだが、まずは人間が貧しくならないよう精進精進。(写真は2022/11のもの)
<伊東マンショの嘆息> 2023.05.27
九州にも「桶狭間の戦い」や「関ヶ原の戦い」がある。島津義弘が300名で3千人の伊東義祐を破った「木崎原の戦い(1572年、えびの市)」、島津義久が大友宗麟を破った「高城川の戦い(耳川の戦い、1578年、木城町)」である。
日向の大族伊東氏も九州の盟主大友氏もそれぞれの合戦を契機としてやがて没落し、島津氏は九州統一をほぼ成し遂げる。その高城川の合戦地をようやく訪ねる事が出来た。
小丸川(旧高城川)と切原川に押し出されて出来た沃地には既に稲が植えられていた。この青々とした稲田の下に”関ヶ原”の兵どもが眠っているに違いない。番匠川一帯ではこの日が”水路の水入り”の日で、これから田植えの最盛期を迎える。
小丸川を挟んでその河岸段丘の上に東西に対峙する形で両軍が陣を構えた。大友勢は北東に孤立した島津側の高城を攻めるが落とせない。
この合戦では当主の事態認識の違いがお家の命運を決した。島津義久はこれまで兄弟に任せていた合戦に初めて自らが兵を率いて乗り出して来た。それほどの国難という認識があった。一方、宗麟は土持氏を滅ぼした県(延岡)で切支丹国を作る事に熱をあげ合戦は佞臣の田原親賢(紹忍)を大将に据えて任せっきりである。大友勢は既に諸将の内紛で合戦前に事実上自壊していたようなものである。「佐伯惟教父子」は幼い孫の「惟定」を栂牟礼城に残したままこの川に散った。
大敗の報に接した県の宗麟は這々の体で「ルイス・フロイス」らと共に臼杵に逃げ帰る。惟教父子は無駄死と言えなくも無い。後年、その無念を孫の惟定が晴らす事になる。
時間を余した。島津義久が直々に進軍してきたその道を辿ってかつての伊東氏の居城都於郡城跡(国指定、西都市)まで足を伸ばす事にした。
日向でも群雄が割拠した。国人の肝付氏、土持氏に鎌倉から伊東氏が割って入り、伊東氏より早く薩摩に下向していた島津氏がやがて日向を侵食する。肝付氏は島津氏に組み込まれ、日向最大の勢力に成長していた伊東氏は「木崎原の戦い」を契機に日向から放逐され大友氏を頼る。島津に与した土持氏は大友氏に滅ぼされた。
「天正遣欧少年使節(1582-1590)」の「伊東マンショ」はその伊東氏の縁者で伊東氏(義祐)と共に落ちて佐伯地方に隣接する野津町に住んだ(はずである)。
さて、いつも遠征の最大の楽しみである”じいじの握り飯”を食べる場所が今日は中々見つからない。既に昼食時間をニ時間ほど過ぎて車中腹が鳴りっぱなしである。
都於郡城は五つの曲輪が配置され、やたら広い。これを分かつ空堀の深さでも有名である。海原に漂う舟のような美観から「浮舟城」とも呼ばれる。「春は花 秋は紅葉に帆をあげて 霧や霞の 浮舟の城」。何処から攻めればいいのか迂闊にも事前情報を持っていない。腹は鳴る。暫し待て、宴を催す適地が無いのだ。やっと探り当てた虎口を上り切って何とか本丸に至った。
何と目の前にあの伊東マンショが居た。彼は都於郡城で生まれたのである。マンショがまるで手招きしているようだ。「汝ら子羊、ここに来ませ。ここで腹を満たせ。さすれば汝らは幸いである。」そう受け取った。
今日は生憎曇り空だが幸いにも日差しも無く暑さは凌げる。マンショの面前にシートを広げ座り込み宴を始めた。今回もその質量共に申し分ない。腹の鳴りはようやく治まった。
はて、マンショが何か呟いたような。
<Are you human ?> 2023.05.24
NHK大分放送局に地元出身俳優による散策番組がある。たまたま昨夕それを見た。臼杵市の「黒島」探訪だったから興味津々、やがて不快感沸々。
地元案内人、俳優、アナウンサー、いずれも「リーフデ号がこの島に漂着、三浦按針はこの地を立ち徳川家康に拝謁し仕えた。」と誇らしげに繰り返す。黒島に漂着だなんてそんな根拠のない事を公共放送でよくもしゃあしゃあと。実際の漂着地は佐伯湾だ。大入島と上浦の間辺りに投錨した事は概ね証明されている。佐伯人は黙したままで本当にお人好しである。
先般、そのリーフデ号の見ただろう光景を「深島」に追った。陸側からもリーフデ号の漂流した光景を探したくなりぶらりと出掛けた。何しろ今日は畑の草刈りをするには天気が良過ぎるのだ。
唸るほどの絶景。息を飲んだ。ため息も出る。足元からの新緑に浮かぶ沈降海岸の美、海と空の青の輝き。太平洋が圧倒的な空間を占めて水平線の向こうにうっすらと四国の影。
ただ、こんなところに来る地元の人間はまずいないと確信した。観光客は尚更来るはずがない。僻地日豊の海側のもっとも辺鄙な岬の上である。ここまで来るのに引き返そうかと怖気付いてしまうほどの細くジグザグの傾斜のきつい道を登る。峠を越えてやっと日向に踏み入ったところにある「横島展望台」のことである。
なのに、なんと先客がいた。それも聞けばスリランカからの一家だ。通常ではあり得ない。だからこの絶景に一瞬違和感を覚えた。
日本で外国人に会うと英語で喋りかけたものか日本語で攻めるべきか意外と逡巡するものである。両刀で探りを入れてみた。暫く会話していると「Are you Japanese ?」と来た。日本人以外にこんなところに来るものか、と思ったが目の前に現実に来ていたものだから、「Yes I am.」と返さざるを得ない。
SNSで素晴らしい景色だと紹介があったから見に来たと言う。今や外国人の方が日本の魅力をよく調べていて彼らの観光サイトで共有される。日本人の方がこれを後追いするミーハー振りなのである。彼らは先入観無しに素直にいいものをいいと言える。だから日本人が見落として来たものをよく発見する。
「あの島に行きたくなった、何処から船に乗るのか」と深島を指差す。先週、渡ったばかりだ。任せておけと言わんばかりに自慢げに説明した。
さて、こっちは何と言おうと「Japanese」だ。先を越されたこの外国人一家よりはもっといい景色を探さないと今日は始末がつかない。リーフデ号どころではなくなってきた。
「ええい、ままよ」、一家に別れを告げて更に奥深い「陣ケ峰展望台(431m)」までアクセルを吹かせ続けた。「佐伯惟治」が自刃した場所でその墓のある「尾高智神社」の遥か上方を通り過ぎた事に気づいた。こんな辺鄙なところだったとは想定外で愛車も頂上で暫く喘いだ。
路傍で出会った日本猿が驚いてこっちを見た。何か言ったような気がした。
「Are you human ?」
<リーフデ号が見た光景> 2023.05.14
ノルウェーに世界最大級のフィヨルド、ソグネ・フイヨルドがある。言わずと知れた氷河が大地を侵食して出来た長大な湾である。蒲江湾から海上に出て振り返る海岸線に何故かそのフィヨルドの思い出が蘇った。それほどの海上からならではの威容であった。沈降海岸、海蝕崖の粋といえよう。
そこから屋形島と深島に渡った。両島は江戸期に旧赤木村(直川地区)の農民が拓いた。今もその痕跡が残る。かつて佐伯藩の文人達は「蒲江八景」を詠んだが、屋形島は「落雁」、深島は「夕照」のニ景を得た。
日に四便しかない定期船の都合上、それぞれ4時間の滞在時間となるが余すような時間は日程にはない。屋形島では竜王山に登ることを目的とし、父が教鞭をとった思い出の地でもある深島は島内隈なく探訪する。
屋形島では佐伯藩の放牧地であった唯一の平地に集落がある。もはや地元の人もそこからの登山道を知らない。当たりをつけて尾根まで登ると道らしきものを発見し無事頂上に達した。この登山道は、今は樹木に埋もれている、頂上まで刻まれた段々畑に通う道だった。昭和の中頃までは麦と芋を栽培していたそうで、さぞや見事な光景であったろう。尾根上には標高差をつけて枯葉に埋まった貯水槽跡が三箇所あった。島の南面の断崖絶壁上に三角点があり、足元には祠が倒壊していた。頂上の絶壁の縁に到るまで畑の痕跡があった。波濤の向こうにこの後渡る深島が浮かんで見えた。
集落まで降りてくると、今しがた着岸したらしい鉄砲隊がこちらに向かって行進して来た。猪の駆除だという。猟犬が山に放たれ猟師達が追われた獲物を山中で待ち受ける。やがて立て続けに発砲音が竜王山に鳴り響いた。下山が遅れていたらこっちも駆除されるところであった。
麓では水が枯れたことがない。錆びついた手押しポンプが二基、猪が掘り荒らした草地にぽつねんと立っていた。その名の通り竜王山には水の神を祀っていたのだ。水が枯れる訳がない。
深島は海の色がターコイズブルーだった。もはや南国の海である。ただ、釣り客と我々を除けばここでの四時間はさぞかし持て余すことだろう。島の南端の一番高い場所にある灯台まで半時間ほどで登れる。タブの木であろうか道は鬱蒼とした樹木で覆われていて植生がまるで陸地側と違う。一帯は配流された農民達が開いた畑だったのであろうが自然林に戻っていた。何処かに水神を祀っているに違いない。この小さな島に結構な水量の小川が道行きを共にした。
登り切ると三角点の側に灯台が立っている。三角点は海側に立ち塞がった土壁が半円状に穿たれた縁に張り付いていた。窓のようになったその土壁を覗き込むと目眩がしそうな断崖絶壁であった。危険極まりない三角点である。ここで「じいじの握り飯」を食す。リュックにずっしりと重みを感じる程にこの日の量は半端ではなく、じいじの意気込みは汗した背中に既に伝わっていた。
真反対の北端の山中の窪地にある廃校まで折り返す。森閑とした森に佇む校舎の裏手に道を発見し無謀にもロープを頼りに下って行くと、灯台から遠望した日豊の海岸線が激しい波音と共に眼前に現れた。対面に屋形島の南壁がそそり立っていた。ロープを放せば地獄に落ちる。
17世紀初頭、佐伯湾を目指したリーフデ号が深島の遥か沖合を漂流していた。水平線上にこの蒲江のフィヨルドが視界に入って来た時、死地からの生還に神々しくさえ見えただろう。
夕凪の海をそのフィヨルドを眺めながら帰帆した。
<延岡の思惑> 2023.05.12
佐伯地方の北の壁は岡城の竹田市と石仏の臼杵市であった。南にも壁があるだろうか。延岡市に行ってみた。
知る限り、ここは「延岡城」と「若山牧水」が魅力資源であろう。地勢的には更に困難な高い壁、一千メートル級の佐伯五山や北川の深い峡谷が行く手を阻む。延岡は佐伯に劣らず僻地性が強い。お互い背中合わせに九州のどん詰まりにある。
半年前、鮎の宝庫と言われる延岡の「鮎やな」で見事な鮎を食した事を思い出した。天然鮎である。これも延岡の魅力資源に加えておこう。
かつて我が番匠川も天然鮎に恵まれた。河口にあったパルプ工場の廃液の逆流を防ぐべく堰が設置され鮎の遡行が絶たれた。今は放流鮎に頼る。だからこの時期、鵜に食われぬように川の至る所に鳥追い用のテグスが張り巡らされて興趣を奪っている。目的を終えた堰を取り除きさえすれば天然鮎は戻ってくる。テグスも不要になる。そういう魅力資源の再生も可能であるのにと嘆息も出ようものだ。
「延岡城と牧水」、「佐伯城と独歩」、そういう視点で対比出来ぬ事もない。独歩の城山に対する傾倒、城山の独歩に与えた影響は牧水のそれを圧倒するが、牧水には希薄である。
城郭そのものは規模としては延岡城に譲らざるを得ないが魅力度では佐伯城は引けを取らない。我が城山は何度登っても飽きる事がない。素朴で孤高で黙然として思索的でこれを形容するに言葉は尽きない。城山からの眺望も佐伯城が勝る。
更に、石垣とのコントラストが実に美しい伊予松山城のような「下見板張りの塀」や、独歩が利用した坂本邸裏手の「旧登山道」が復元された城山を想像するともう卒倒しそうである。
延岡城は「千人殺しの石垣」でインパクトを残したがそれ以外に見るべき魅力に乏しい。千人殺しとは言え、一番下の礎石を外さないと石垣は崩れない。現実的にはそんな悠長な事をやっている戦況は有り得ない。ただ、この名付けで観光面では大勝利である。
出来立ての「内藤記念博物館」を訪ねると「藤井フミヤ展」の前日だったらしくスタッフは忙殺されていた。「藤井フミヤ展の予約ですか?」と問うてきた。何という錯誤だ。そもここは延岡藩主内藤家が主人公ではなかったか。
帰途、俵野の「西郷隆盛宿陣跡資料館」に立ち寄った。誰一人訪問客がいなかったが、それ故にか西郷隆盛としみじみと対面した。背中合わせの日豊の山稜は西南戦争の最後の激戦地である。隆盛自身は佐伯に進軍する事はなかったが、佐伯地方でも激戦が行われた事を忘れてはならない。ただ、同様の資料館は佐伯には無い。
その日豊国境を南北に流れる鎧川沿いに国道10号線を愛車のみが疾駆する。ここはドライブの穴場である。騒然と言いたくなるほどの新緑に埋もれるように国道と日豊本線が渓谷を挟んで並走する。カーブがやたら多く、新緑が視界を塞ぎ道を消し去っていく。渓谷を吹き抜ける風はザワザワと森を揺らし鮮やかな木漏れ日が路面に降りそそぐ。新緑と光と風の躍動の世界は筆舌に尽くし難い。
佐伯と延岡が背中合わせに創出してきた素晴らしい自然と渓谷走路と言わざるを得ない。僻地が故の粋がここにある。もはや壁はない。もっとも延岡側の佐伯に対する思惑は知らない。
牧水の城山
なつかしき 城山の鐘 鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに
ふるさとに 帰り来りて まづ聞くは かの城山の 時告ぐる鐘
独歩の城山
余が初めて佐伯に入るや、まづこの山に心動き、余すでに佐伯を去るも、眼底その景容を拭ひ去るあたはず。この山なくば余にはほとんど佐伯なきなり。
城山寂たる時、佐伯寂たり。城山鳴る時、佐伯鳴る。佐伯は城山のものなればなり。
<臼杵という壁> 2023.05.10
別府や湯布院まで来た観光客は、臼杵石仏、大友宗麟の丹生城(臼杵城)、二王座歴史道(竹宵)、野上弥生子(秀吉と利休)、敢えて、リーフデ号(三浦按針)、吉丸一昌(早春賦)、春日局(屋敷跡)、と臼杵までは行ってみようと考える動機付けが多くある。臼杵は観光資源がコンパクトにまとまっている。それでもこれらの観光客はここを南限に残念ながら佐伯まで足を伸ばそうとは中々考えない。佐伯はインパクトある動機付けが可 能にも関わらず今はそれは眠ったままにある。
佐伯地方の北側には東西の壁がある。地質学では臼杵八代構造線という。佐伯地方にとっての深刻な壁は西の竹田市と東の臼杵市である。この構造線と両市の歴史文化遺産が佐伯地方にとっての二重の壁となっている。今回、新たに臼杵の魅力資源を発見してしまった。これはもう差がつくばかりである。
当時、日本最大の切支丹が暮らしていた野津郷(野津町)から旧岡城路を臼杵川沿いに下っていくと掻懐(かきだき)地区の障子岩という場所に出る。ここで左岸から中臼杵川が合流してくる。掻懐は切支丹墓で名高い。臼杵は大友宗麟の本拠地である。旧野津郷を中心にこの地方には多くの切支丹遺跡が残る。ただ、こういう文化財は地味故に今は地元の人々にさえ見向きもされないようだ。(2022.06.04付けFacebookに書いた)
更に下ると国宝臼杵石仏がある。真名野長者が娘の般若姫を弔う為に造営したとの伝承がある。般若姫の相手は用明天皇である。用明天皇も訪れた訳だ。因みに日本初の産科医楠本イネ(オランダおいね、シーボルトの娘)も二宮敬作に師事すべく、長崎からこの道を通り対岸の卯之町(西予市)に渡った。臼杵には多士済々の歴史人物が実に多く登場する。
大友宗麟の丹生城(臼杵城)は元々は大きな岩礁のような島であった。そのまま島城として残っていたら日本でも名だたる名城になっていたに違いない。豊薩戦で島津勢が落とせなかったのもその故であったのだ。狩野永徳も訪れそこに屏風画を書いた。残念ながら周りを埋め立てられてその価値も埋没してしまった。今では国指定史跡にもなった佐伯城のほうが魅力的である。
今回は石仏や臼杵城へは行かず障子岩から中臼杵川を遡った。そこに新たな魅力資源があったのだ。その名を「臼杵カントリークラブ」という。
佐伯にとって臼杵の壁は更に高いではないか。
<雨の慕情> 2023.05.07
五月なのに何でこんなに寒い、と愚痴ると、苗代布子(のうしろののこ)じゃから仕方がない、と母が返してくる。苗代を作るこの時期は寒さが戻る事を言うらしい。布子(ののこ)とは綿入れのことを言う。自分では使った記憶のないこういう生活用語の多くが失われていった事を思わざるを得ない。
雨が続いている。緑雨である。紅雨でもある。甘雨でもある。そういえば雨の日にぶらりぶらりした事がない。雨に相応しいのは神社だろうと決め込んで出掛けた。
地元の本匠地区を流れる番匠川に合流してくる久留須川を遡ると直川地区に入る。直川には本匠と同じ匂い、農民の辛苦の匂いがする。江戸期には浦に土地を求めて所替えしていった農民も出た。無人島であった深島(蒲江地区)に最初に入植したのも直川の農民である。中世の豊薩戦、近世の西南戦争と薩軍に二度までも蹂躙された人々の土地でもある。
その直川に神社を巡った。辛苦の農民を見守ってきた神々は今はどのように佇んでいるのであろう。道すがら、「レイニーブルー、私も今日はそっと雨」、な気分になった。
だが、雨は実に有能な演出家でもあった。山野に今鮮やかな新緑もこの日は抑制的に一息ついていて、神社の神域に入ると神性がしめやかに厳かに伝わってきた。これを抱く山々には白煙のように山霧が立ち上っていて神域は更にその空間を広げ、神々は今も共に生きていた。
浦に多くの「海からの落住の歴史」があるように里山にも同じ歴史がある。直川はその核心にある。そもそも久留須川の名称がこの地への「切支丹の落住」を匂わせる。やがて久留須川の上流、左岸から横川川が合流してくる。かつての街道は久留須川を離れてここから横川川に入った。そのまま更に久留須川を遡ると深く狭隘な谷地に入って行って山に閉じ込められる。そこに形成された河岸段丘の上に八幡神社(椛の原)や熊野神社(内水)がある。それぞれ飛騨地方、熊野地方から切支丹以前の移住者が棲みつき自らの祭神を勧請したようである。熊野神社は平安時代に勧請された直川最古の神社でもある。
一方、横川川沿いには見事な神殿を持つ鴟尾神社がある。久留須川下流にも同じ祭神(佐伯惟治) を持つ富尾神社があるがこちらの神殿も見応えがある。いずれも土地柄に財力の匂いがせぬでもない。直川の久留須川沿いの多くの神社はいずれも造立時期が古い。農民の辛苦の歴史を思う時、神々への畏敬と信仰心の深さを感じずにはいられない。
雨は意地悪な演出家でもある。こういう雰囲気の中に置かれると人恋しくなる。神々との対話は一人ではやるせないのである。「雨々ふれふれもっと降れ、私のいい人連れてこい」、となろうというものである。帰り道、「悲しき雨音(Rhythm of the Rain)」が心を癒してくれたような。
雨のぶらりぶらりも案外悪くない。
<昭和の乙女達> 2023.04.19
地元の史談会の方に堅田地方の史跡を案内して頂いた。最も古い歴史を刻んで来た多くの史跡に恵まれる土地柄である。新たな発見がある一方で埋もれ行く史跡も多く、流石に案内無しに巡るのは無理である事を思い知った。最後には昭和の乙女達に囲まれて、ゆかしくも意義深い日であった。ただ、そういう豊かな史跡とこれを守り敬う人々の未来は中々厳しいものがある。
この地には古く縄文・弥生人が集落を営み、中世には佐伯氏の本拠となり、近世には佐伯藩と天領が相接する中々に厄介な、そういう土地であった。大内氏の水軍の侵攻に遭い、豊薩戦の緒戦の主戦場になり、主家に追われる佐伯惟治父子の悲哀も染み込んだ戦乱の傷跡の残る土地でもある。いずれも、古来、この地が佐伯地方の要地であった証明といえる。
それだけに魅力もまた満載である。まずはそれぞれの地名が故ありそうでワクワクさせてくれる。上城、下城、観喜(かんき)、府坂、市福所(いちふせ)、西野(さいの)、波越(なんごう)、泥谷(ひじや)、などである。
史跡については「長瀬原古戦場」とそれ故の「千人塚」、何やら高貴なる趣の「市福所」の「潜龍塔」、天領の物流拠点「柏江港」、これらは特に想像力を駆立てて止まない。決定打は昭和の乙女達の「わらべ歌」との出会いであった。だからこの地を愛しみ逍遥を重ねた国木田独歩に浸る余裕はついぞ無かったのである。
「ねえさんねえさんどこゆくの、わたしゃ九州鹿児島の、西郷隆盛娘です、明治10年10月の切腹なされた父上の、お墓参りでござります、なむちんなむちん、じゃんけんぽい」
西野の惟治千代鶴供養塔でいずれも90歳近くの昭和の乙女達三人に出会った。何故か彼女達は突然その一節を墓碑前で口ずさんだ。お願いして頭から最後まで繰り返し歌ってもらい採録した。この辺りでは誰もが知っている昔ながらの歌だと言う。思わず「西南戦争時、薩軍とは隣村の直川では激戦であったが西郷隆盛はここ堅田どころか佐伯にも来ていませんよ、隆盛は惟治の間違いではありませんか」と言ってもそこは聞く耳がない。西郷隆盛は確かに菊草(菊子)という奄美大島生まれの一人娘がいた。このわらべ歌は全国各地に伝わって歌われているらしい事は後で分かった。西野に限らず佐伯地方のどこでも歌われていたに違いない。
これも生活の歴史である。民俗である。たかだか150年前に始まったのであろう、このようなわらべ歌さえもが間も無く昭和の乙女達と共に消える。歌ってくれた乙女達はその事に気づいてはいまい。史跡も民俗も伝承する事の難しさを思い知った日でもあった。
<野にある宝物> 2023.04.09
かつて文化の香りが横溢していたに違いない佐伯の街にその文芸を担った人々の痕跡を追った。
国木田独歩が実際に利用した城山への登山道、葛港の投宿先鎌田旅人宿の内部やその界隈、最早いずれも打ち捨てられた空間以外の何物でもなかった。
第8代藩主毛利高標が開いた「佐伯文庫」や「四教堂」の名声を高めた文人達(松下筑陰、明石秋室、中島子玉)や御典医・今泉元甫の墓標、いずれもその存在を無視されたかの如く侘しく山中に埋もれていた。もう何年も何十年も訪れる人とてないのだろう、手入は及んでいない。
種田山頭火の想い人・工藤千代も草木に埋もれて眠っていた。独歩の紀州乞食の墓標は広大な墓地に探すすべがない。木の墓標である。朽ちてしまった可能性は大きい。
総じて佐伯の街の文化も共に葬られた如くであった。
「歴史と文学の道」を外れた奥まった城山の裾の高台に石組みの見事な武家屋敷跡がひっそりと佇んでいた。毛利氏の用人・竹中團右衛門の屋敷跡で豊臣秀吉に三顧の礼で迎えられた軍師・竹中半兵衛の流れをくむらしい。その屋敷跡の脇に独歩が繁く利用した城山への登山道入口があった。側の武家庭園跡の池はまだ水を湛えていて春の光に青葉の影を落とし何ともいえぬ風情を伝えていた。「春の鳥」の主人公六蔵もこの脇から城山に登って行ったのだ。山中に分け入ると登山道は疎林を縫って上へ上へと確かに痕跡をとどめていた。
かつての「鎌田旅人宿」はこのままでは危険度を増して撤去は必須であろう。中を案内してくれた家主も文化財として市に引き取りの上保全を懇請するも却下されたとのことであった。古民家再生という手法も世にあるのだ。家人がせめてもと要請して設置成った御影石の「寄寓碑」が朽ち逝く建物とは不似合いな質感で路傍に立っていた。
裏手の「警報竿の丘」に登ると独歩や地元民が感嘆した佐伯湾の絶景は雑木に遮られていて今は見えない。更に奥にある明神社には独歩が見た「六歌仙の額」は当時よりは色褪せていても未だ掲げられていた。いずれへも10分も要しないその道は散策には耐え難い状況にあった。
僅か半日余の探訪にもかかわらず予期せぬ新たな出会いと発見もあった。とあるお宅でかつて佐伯地方の史跡に関する膨大な映像記録を市の教育委員会へ寄贈した事実を知った。今は野に埋もれてしまった文化財の記録が生き生きと映し出されているかと思うと興奮を抑えきれなくなった。映像記録も立派な文化財になり得る。寄贈は30年を遡るとなれば撮影年は更に昔の事であろう。ただその存在に無関心なのだろうか、案の定、どこぞの倉庫に埋もれて行方知れずとの事であった。せめて必死にそれを探そうとする市の姿勢が寄贈した老夫婦には伝わってこない。老夫婦の無念と後悔の言葉に唖然とするばかりであった。
文化に対する無関心は新たな文化財の発掘の障害となる。寄贈して散逸されるよりは私蔵するのが一番安全だと思わせてしまうのだ。その貴重な一点を拝ませてもらった。「広瀬淡窓」が慕った師の一品である。一級の文化財であろう。
文化行政の貧しさがこの地の地盤を更に沈下させている。意気揚々の故郷の歴史探訪は初っ端から苦いものになってしまった。唯一、文化を大切に思う老夫婦との出会いが最大の発見だったのかもしれない。切なくも彼らもまた遠くない日に宝物と共に世を辞去してしまうのだ。
<怖しきものの末裔> 2023.01.16
またあなたに逢える日まで暫しお暇です。
佐伯地方探訪は飽きる事がないが、そろそろ時間切れである。この地方のその後の260年を毛利氏に託した(実際は託す前に退去したのだが)大神佐伯氏400年の源流を訪ねたくなった。旧日向街道沿いに三国トンネルを抜けて豊後大野の宇田姫(うたひめ)神社と竹田の穴森神社まで車を走らせた。祖母山(姥嶽)が終始視界に見え隠れしていた。
平家物語の「苧環(おだまき)の章」に”怖しきものの末裔”として「緒方惟栄」が紹介されている。豊後大神一族の棟梁である。姥嶽大明神(大蛇)と美しい娘(華ノ本)の神婚により生まれた体に鱗を持つ暴れ者の「大神惟基」をその祖とする。九州一の武勇を謳われた惟栄はまさに怖しきものの末裔なのである。佐伯氏もこれに連なる大神一族で三つ鱗の家紋も惟基の鱗に由来する。佐伯氏の通字も”惟”である。
その大蛇が住んでいたのが穴森神社で、相手となった娘を祀ったのが宇田姫神社である。いずれも境内に御神体の巌窟がある。両神社間の距離およそ20km、それぞれの巌窟は洞穴で繋がっていると伝わる。祖母山(姥嶽大明神)、穴森神社、宇田姫神社と大神一族のパワースポットが一直線上に洞穴ではなく「うたひめロード」で繋がっていた。
さて緒方惟栄は源平合戦で源範頼に九州渡海用の船を提供し支援した。その後、義経に与し頼朝と対決するが、義経の逃亡後はその行方は定かではない。豊後佐伯荘に住んだという話もあるが奥州にも話が残っている。宮城県気仙沼市に羽田神社がある。その由緒に豊後大神一族の棟梁緒方惟栄が義経と共に陸奥に下り再興したとある。
穴森神社からそう遠くない竹田の岡城は、その怖しきものの末裔惟栄が義経をかくまう為に築城したと伝わる。義経と惟栄が播磨の大物浦で嵐に遭難さえしなければ、両者がこの岡城を本拠に平家に代わり西国を統治していたかもしれないのである。岡城はとても落とせる城ではない。後年、関ヶ原の東軍の陣中を正面突破したあの勇猛な島津義弘も三万の兵をもってしても落とせなかった堅城である。岡城にも行かざるを得ないだろう。
岡城に登るとくじゅう連山が眼前に迫る。その麓を通る旧肥後街道の今宿(旧街道の石畳が残る)にも行ってみたくなった。こちらは大神一族とは全く関係がない。加藤清正や勝海舟や坂本竜馬もそこを通ったことを思い出しただけである。海舟と竜馬は下関砲撃事件の調停交渉の為に豊後鶴崎に上陸し、この街道を足早に長崎に向かった。石畳の上を車で走ってはいけない。車ごと下手くそな全身マッサージを受けているようだった。
豊後大神一族が蟠踞した大野平野の南面に衝立のように空を遮っている佐伯地方の尾根が夕景に浮かび上がっていた。早く帰って来いと呼ばれているようだった。
やはりあなたの深い懐に抱かれていると居心地がいい。
<"逝きし世の面影" > 2023.01.11 & 12
床木街道から古市、鶴岡の田園を経て城下へ入る道は八幡山の裾を切り通して開かれた場所にある角石木戸で一旦制止される。ここからが佐伯城下になる。領主専用の船着場はここにあった。
右手には番匠川が深く迫り防御は万全である。ここから通称船頭町川と呼ぶ。分岐した掘割のような潮入川は左の山手に沿ってやがて大手前を流れ内町川に出会う。内町川も船頭町川から分岐して流れ込む川で城下を囲むように流れて海に出る。
この三川に囲まれた二等辺三角形のような土地一体が船頭町である。住吉神社と潮谷寺が内町川を底辺とするその角地に立つ。船頭町河岸には100艘の船舶が係留され、「札場」はその荷役で賑わい、船舶修理用の上下「船倉」は活況を呈した。海路ではここで下船し城下に入る。河岸の「石垣は堅固な上に美しく城壁のように輝いていた」。
その底辺に向かって「本丁」、「裏の丁」、と主要な通りが走り裏の丁の突き当たりに土佐の長宗我部氏の流れを汲む大日寺がある。門前には同道して来た家臣の末裔が定住し檀家として商家を営んだ。住職曰く、長宗我部神社のある鶴見半島の梶寄や蒲戸半島の夏井浦にも檀家があり、瀬戸内から漕ぎ継いで入った佐伯湾で二手に分かれ両半島に住み着いたに違いないと。
札場から大手前までは路地は互い違いに両大通りを縫っていて敵の大手門への直接の侵入を阻む町づくりになっている。今は「京町通り」と呼ばれる裏の丁は佐伯一の花街であったが、昭和初期に大火に見舞われ江戸期以来の景観を喪った。本丁も明治期に大火にあっている。佐伯町は戦前には県下第二(第一は別府)の芸妓数を誇った。船頭町ある故である。歌舞音曲の音色は船頭町川に浮かぶ夜船に途切れることなく届き、広瀬淡窓や国木田独歩の詩想を刺激してやまない山川の風景もまた混然としてそこに分け難くあった。「綺歌(けんか)淡蕩として薫風を動かす(淡窓)」。
景観喪失のトドメは河港機能を持つこの船頭町川の埋立で、そのゆかしき光景が歴史の彼方に消えた。この川に盛んであったシロウオ漁も消え、やがて在浦の物産の集積地としての賑わいも消え、現在の光景とは違和感を抱くように船頭町の名前だけが残った。
各地の城下町には、武家屋敷は当たり前の景観として残されているが、商人町として残されたケースは少ない。倉敷のような見事な景観を望む事は出来ないが、水都佐伯の象徴としての船頭町の景観を復元出来ないものかと思う。加え、武家屋敷と商人街の間に大手門が復元されるならば統一感のある城下町の佇まいが蘇ってくるに違いない。
これに物語を加えれば完璧である。「菊姫伝説」だけでは力不足である。時代小説「密命」の舞台を取り戻せないものであろうか。広瀬淡窓や国木田独歩が心を揺さぶられた船頭町川に腰まで浸かり、「寒月霞斬り」を開眼した金杉惣三郎の復活は、佐伯城下の物語性を一層盛り上げる事、必定であろう。何しろ累計発行部数は700万部を超えるのである。「近来月まことに美なり。番匠川の岸に立って此の絶大の景を見、昨夕は独りまた岸上に立ちて此の絶美の景に対しぬ(独歩)」。
過去の経緯はともかく佐伯城が国指定になったことを契機として、ここは頭を下げてでも作者と和解交渉をすべきではなかろうか。この城下にもたらされる価値を思えば大層なことではない。常夜灯や御座船絵馬や住吉御殿や登城太鼓と、江戸期の文化財も輝きを取り戻すに違いない。お大尽の多かった船頭町だからこそ、その保存を可能ならしめたのだろうから。
お大尽の心意気が今に引き継がれる船頭町の人々は心豊かであった。
<じいじの握り飯> 2023.01.08
「じいじ、おにぎり握ってるの? また、”耕二君”と山に登るの?」、友人の六歳の孫が言ったそうである。
お陰で益々豪勢の度合いが増した昼食を山腹に済ませると、「境界石」に巡り合う事が出来た。三国山(664m)をやや宇目側に下った尾根に三国(岡藩、臼杵藩、佐伯藩)を分かつ石塔が埋もれるように横たわっていた。
厳密にはここが三国峠と言うことになろう。南北に旧日向街道が通っていて脇に茶屋の跡地らしき広場が残っていた。そこを東側に下った所に「番匠川の源流」がある。喫茶用の水はそこから汲み上げていたに違いない。ならば茶は因尾茶だったであろう。それより古いもう一つの石塔には「豊州佐伯因尾村組樫峯」と刻んであったのだから。島津家久、大友宗麟、ルイス・フロイス、児玉源太郎、等、この茶屋で因尾茶を啜っただろうか。
現場を押さえて初めて分かる事がある。宇目重岡駅に下車しこの三国峠を越えて行く時に種田山頭火は「日が落ちかかるその山は祖母山」と詠んだ。実際には「傾山」だったに違いない。林を抜けて笹で覆われた尾根に出てくると目の前に現れるのは周囲を圧する傾山なのである。祖母山はちっぽけなものだ。ここからは、みはるかす絶景が広がる。祖母傾、阿蘇、くじゆう、由布、鶴見、と豊肥の名山が一望出来、「浩然の気を養うに足る景観」と絶賛されたのも頷ける。
「”とじ”みたいな道だな」と、もう一人の友人が漏らした。鮎を”ちょん掛け”する時のコツは、「鮎は川底の決まったところを通る習性があるからそこで待って獲る」と続ける。蘊蓄を語っているのだが、そんな事には無頓着なところが好ましい。”とじ”は一体どうゆう意味だと問うと「それは知らん」、蘊蓄も台無しである。”兎路”と書くのだろうと言うことに落ち着いた。尾根にところどころ残っている細い日向街道も人間が作った”とじ”みたいなものだ。一列にならないと軍勢も進めない。
笹の原っぱの一部が大きく窪んでいる。脇に「西南戦争薩軍山田宗賢墓」が建っていた。まさにこの窪地が薩軍の防塁跡の一つで、夜半、官軍決死隊17名の急襲に防塁内の飫肥藩士(薩軍)十数名が全滅、官軍の大攻勢を成らしめた歴史的な戦跡である。傾山が墓を見守っているようにも見えた。「兵あまた いのちすてたる この丘に いま秋草の 花に埋もるる」(田吹繁子)。
帰路は友人の幼い日の思い出を「山部」の山中に探した。まるで四国の祖谷のような集落(登尾)に辿り着くと、”竹菴”と言う珍しい名字の住人が待っていた。名字の由来にはこちらも無頓着であったが先祖は平家の落人らしい。友人は三国峠の感動はどこへやら、ここで見聞きした己の「山部のファミリーヒストリー」にすっかり感激の態であった。
忘れ去られゆく「松葉の石塔群」に分け入った後、”日の落ちてしまった”山を降りた。何とも詩情溢れる山行であった。
「じいじのおにぎり無しにはもう山には登れない」。
<挽歌> 2023.01.05
閉校した母校の小学校の校歌を思い出せないと書いた。同級生が「私も思い出せない」という。その後、歌詞は分ったもののそれでも譜面がないのでメロディは未だ蘇ってこない。別の同級生も同じようなもので今そのメロディを探している始末だ。卒業して以来、意図せず校歌を不要なものの範疇にしてしまっていたのだ。だから思い出せない。その歌詞やメロディが堅苦しく仰々しく、つまり古臭く現代感覚にそぐわないからだと言い訳をする訳にはいかない。母校の象徴であり、ないがしろに出来ない精神の柱になっていたはずなのだ。
時代を反映したいのであろうか、よもや生徒への迎合でもあるまいが、最近では流行歌手に頼んで校歌を作詞作曲してもらうケースも増えて来た。閉校になった我が母校は東西の小学校が統合されて本匠小学校として再スタートしたが、その校歌はシンガーソングライターの伊勢正三が作った。なかなかいい歌でこれなら卒業後も歌い続けてくれるかもしれない。いかついイメージを纏っておらずメロディも心に染みる。
それでも今の自分の中には当時の校歌の方が校歌らしいと思う天邪鬼がいる。今風は何だか優し過ぎて平和的でそこには厳格な教師や校風の喪失感が強い。行事の度に歌っていた校歌は背筋を伸ばしてくれたような気がする。その校歌を思い出せないのだから情けない。
母校は帰省してもいつもそこにあった。そこに後輩たちが同じ校歌を歌い継いでいた。それが当たり前だと思っていた。小学校だけではない。中学校も閉校した。母校は残すところ高校と大学ということになるが、小中学校ほどの母校愛はない。学び舎での懐かしい光景や思い出の凝集度合いが格段に違うのである。少年が大人になっていく苦さ故でもあろうか。
校歌は挽歌になってしまった。それを思い出せないとは何だかやるせない。
<校歌斉唱> 2023.01.03
下山はまるでモーグルの選手になった気分だった。この山は三角おにぎりのような形をしていて何処から眺めても姿形が惚れ惚れするくらいに美しい。その一辺が登山道になっていてほぼ真っ直ぐである。正三角形の内角はそれぞれ60度であるが、そういう角度でその一辺を上り下りしなければならない。
冬季の高乾燥で勾配のきつい地面は固く引き締まっていて、広葉樹の枯葉がこれを覆い尽くしている。そういう条件だから滑ること滑ること、ストックで必死にブレーキをかけながら滑り降ちてきた。そんな登山感覚であった。
本匠波寄に聳える霊峰石鎚山(310m)の事である。その麓に1087年に保食神社が創建された。この山の頂上の巨石の上に神仏が来現する奇瑞が生じたことが発端である。
頂上には摂社(本社と末社の間の格式)石鎚神社(四国の石鎚神社が本社)が勧請されている。御神体が三体あり通常は麓の保食神社に安置されている。大分県は石鎚信仰が盛んといわれるが、それでも三体の御神体を持つものは稀なそうで、この神社の格式が偲ばれる。毎年六月の大祭には御神体は氏子により一体づつ山頂の石鎚神社に担ぎ上げられ暫くそこに祀られる。
この伝統ある行事が連綿と続いて来たが、氏子の老齢化はいずれこの山に登るその体力の限界を突きつけられるだろう。貴重な行事が「体力の限界」により途切れぬ事を祈るばかりである。
廃校になった我が母校の小学校はこの坐像のようにも見える山の膝に抱かれるようにあった。その校歌の歌詞の冒頭にこの山の名が出てくる。卒業生にとっては真っ先に懐かしく思い出される、霊峰とは別物のふるさとの山でもある。
下山してくると、麓の保食神社では宮司が拝殿を開ける準備中で、声をかけると参拝への準備が間に合わず申し訳ないと思ったか恐縮の体である。その代わりという訳でもなかろうが、「お祓いを致しましょう」との申し出となった。暖かい善哉共々有難く頂戴し帰途についた。
帰路、そんな石鎚山を歌ってやりたい気分になったが、お祓いされて脳内が洗浄されでもしたか、校歌のメロディが、その歌詞が、どうしても思い出せない。
ふと思った。その地勢が故に佐伯地方の多くの学校でも同様に校歌に地元の名山が歌われているのではないか。廃校と共に継承が途絶えた校歌もまた民俗文化の喪失と言えるのではないだろうか。そんな事を気付かされた正月の登山であった。
<ワルサの呪縛> 2022.12.29
その語源が未だ分からない。鶴見半島の最高峰ワルサ山(265m)の事である。半島が最も細くくびれたところにある猿戸から間越への標高僅か50mほどの峠から尾根伝いに登る。猿戸は国木田独歩が佐伯の名士達の鹿狩りに同行し下船した場所である。その当時はどこを眺めても段々畑やこれを囲うシシ垣が見事な景観を呈し独歩も感銘を受けたに違いない。
その峠から鶴御崎まで約5kmの自然探勝路(尾根道)が拓かれていてワルサ山への登山道はその途上から分岐している。以前、その探勝路沿いにあるシシ垣を目指したが中々出会えず途中で引き返していた。ワルサ山にも登っていない。
キリシタン大名であった佐伯藩祖毛利高政は私費で聖堂と大修道院を建立したと伝わる。イエズス会のサン・ヨゼフも城下に聖堂を建立したと記録にある。
この半島に切支丹聖堂跡が残っている。高政は地松浦の「松ケ谷清水」に目保養によく滞在したらしいが、礼拝の為に船で密かにそこに通ったのではないかと伝わる。ワルサ山の麓、猿戸と同じ湾の北側にある広浦の「的場」と言われる山中の窪地が聖堂の候補地である。多数のキリシタン墓も出土している。
有明浦の日野浦の側の宇土山砦跡もそうではないかと言われる。砦の麓近くにキリシタン墓が集められて荒れ放題の史跡も残っている。日野浦は踏絵を拒否し火刑に処された清太夫一家が住んでいた集落である。
ワルサ山の北東の麓の丹賀浦でもキリシタン墓が見つかった。そもそも丹賀という地名がキリシタンを体現しているといわれる。こちらは天草の乱で落ちてきたキリシタンが住み着いたとも伝わるが真偽の程は心許ない。
以上の全てが途中で訪問を断念し納得しないままにあった。このまま年を越してしまうのも釈然としない。だからつい半島まで車を走らせた。
宇土山砦跡には少なからず驚いた。見事な石垣遺構が整然と残っている。ただ聖堂を設けるには目立ち過ぎる場所である。堀切もある。砦の機能が勝るのではないか。かつてこの半島一帯を薩摩水軍が襲った。住民を捕らえ処刑したと伝わる「処刑場」という地名も伝わる。だから半島に砦があってもおかしくない。
ワルサ山への分岐路をうっかり見落とし丹賀浦辺りまで探勝路を進んだ。途中から圧倒的なシシ垣が先へ先へと誘ってきたから引き返せない。城郭土木でいう「切岸」や「堀切」と見紛う圧倒的な遺構も上下を繰り返す尾根道に残っていた。大満足である。ただ、滑りやすい柔らかな落葉に倒木、散乱する落石、至る所猪の掘り起こした跡、道は荒れ放題である。流石に途中から引き返したが迂闊にもここでも道を誤ってしまった。シシ垣の形状、地表面の有り様、急勾配と明らかに違う道だと気付いた。後戻りしたがどう進んだらいいか判断がつかない。そのまま進む事に腹を決めた。どんどん急峻な下りになる。右手のシシ垣(段々畑の縁か)は仰ぎ見るように高くなっていく。まるで崖そのもので這い上がれる高さではなくなってきた。森も暗くなってくる。「切岸」なんて得意振っている余裕がなくなってきた。ずり落ち転ぶことしきりで、それでも半島南側の間越に出るはずだと信じて下り続けた。何と反対側の丹賀浦にワルサ山の谷筋から吐き出された。くれぐれも山を侮るなかれ、である。
そこから猿戸の峠に停めた車まで寒風の海岸をひたすら歩いた。荒れ気味の海上遥か蒲戸崎の白い岩壁と高平山、彦岳が常に視界にあり景色は悪くない。ただ足は重い。ワルサ山に登るどころの話ではなくなった。
その海岸道の一角に「ワルサ」という地名を地図上に見つけた。間違いなくワルサ山の語源であろう。そういえばキリシタン集落があった日野浦には「隠れ里」や「テンス」という聞き慣れない地名が残っている。吹浦にも「アチカ坂」という妙な地名がある。「ワルサ」もキリシタンに起因する地名に違いない。そう結論付けないと今回の苦労が報われない。
<城郭講話> 2022.12.21
「天領」という言葉は「天朝の御領(天皇の領地)」が由来で明治になって出来た言葉である。「砦」は本城(根城)から「取り出して」作るからそう言う。付城は敵方が本城を攻める為に近くに付ける城だからそう言う。
佐伯城が国指定史跡になった事を機会に地元にお住まいの著名な城郭研究家小野英治氏を訪ねた時の教えの一端である。
訪問目的は、佐伯城の復元イメージを作成する場合の支援をお願いする事、佐伯城に劣らず栂牟礼城も注目されるべき城郭史跡ではないか、との疑問へのご意見を頂く事にあった。「栂牟礼城も国指定の価値はあるのだが」と先に切り出されてしまった。
小田山城は栂牟礼城を守るようにその尾根筋にある。小田ケ峰にあるから小田山城と小野氏本人が名付けたとは知らなかった。付城として築城された。敵の城である。江戸期の絵図によると「新城」とある(らしい)。
今や城郭研究家の一人者として引っ張りだこの奈良大学教授千田嘉博氏も若き日に栂牟礼城と小田山城を調査訪問し小野氏に意見を請うている。当時、日本城郭史学会代表の西ケ谷恭弘氏は栂牟礼城を「戦国末期の山城の遺構を良く残す大分県下屈指の大規模山城」と高く評価している。特に堀切と竪堀の豊富さに驚いている。小田山城との間の尾根にある「七ツ切」は圧巻である。「惟治の乱」の時、大友勢の多くがここで討たれ、その堅城振りに攻城は失敗に終わる。全体に佐伯氏独自の高度な土木技術がみられ、大規模な動員力と資金力無しにその築城は困難であったろうというのが小野氏の見方である。
小田山城は付城として大友勢が急場で造築した。「畝状竪堀」が特徴で栂牟礼城より先進的技術である。ただその遺構の東半分は近年になって無神経にも掘削されて史跡的価値が落ちた。この地の文化財保護意識の低さがここにも見てとれる。
栂牟礼城は実際に戦乱の渦中に使用された生きた城である。大友氏による攻城戦、豊薩戦の前線地域として合戦の拠点となり、大友氏の耳川戦敗戦後は島津氏の脅威に対する最大の防衛拠点として小田山城ともども防備の強化が図られた。豊臣氏による島津征伐時にはその日向陣立の出陣拠点となる。歴史的観点からは佐伯城を凌ぐのである。
先般探訪した栂牟礼城の麓の引地館(佐伯氏居館、現愛宕神社)には薩摩征伐の為に九州入りした日向陣立の総大将豊臣秀長が実際に宿泊した。この地から佐伯氏の最後の当主佐伯惟定が島津攻めの先導役を務め出陣した。藤堂高虎も惟定家臣の屋敷に宿泊している。惟定と高虎の運命の出会いである。後に惟定は藤堂家の重臣となり、特に水軍の将としての貢献を代々顕彰される。ヤマト政権、源家平家、南北朝政権、大友氏、それぞれが頼った佐伯地方の水軍力(操船、造船)をもっと評価したいものである。
小野氏の自宅の前に栂牟礼山がある。栂牟礼城の本丸に立つと「遠く阿蘇山が見えた」、と小野氏は昔日の登山を懐かしんだ。この戦国の希少な山城をもっと評価し世に知らしめないと佐伯氏の四百年、豊後海部郡の先祖達に申し訳ない。冷たい雨の降る日であったが熱いものを得た。
<佐伯氏の面影> 2022.12.16
栂牟礼城の麓の「引地(曳地)」と「居船」の地名でこの地に港があった事が分かる。門前川が水運を担った。帆船は「引地」からはその名の通り上流の「居船」まで人が曳いて行ったに違いない。門前川がここから細くなり帆が使えなくなるからだ。
「瀬登りの脇差」の伝承の木戸城の下をかつて流れていた川は番匠川から門前川へ流れ込む支流(以下、瀬川)であった。「番匠淵」辺りから木戸城の方向へ大きく流れが変わっている事が分かる。
昔は防災・貯水ダムもない。大規模な植林もしていない。だから川は現在とは比較にならないほどの水量を有し水位が高かった。底がお椀状の和船は水深5mもあれば航行出来る。千石船程度はこの地まで遡行出来たのである。そういう思いで「引地」にある愛宕神社に登った。
佐伯氏の居館(引地館)はここにあったに違いないと確信することが出来た。上は広い台地状になっていて何処にも一望が効く。通常、神社はこんな場所には建てない。神木となるような大樹も残っていない(元々なかったのだ)。
右手遠方の十三重塔のある辺りの小山に木戸城があった。その下を堀割のように瀬川が流れていた訳である。居館防衛に絶好の場所である。その小山の頂上に古塔群を見つけた。尾根からは堀切で遮断され独立峰のようである。惟治に異心を抱いていたといわれる甥の惟勝も住んだ。
栂牟礼山が抱え込むようにその麓に幾つかの谷地がある(八戸、迫田、大田、引地、帚木、長畑)。中央の「引地」だけが小高い丘になっていて愛宕神社がある。引地館を囲むようにそれぞれの谷地に佐伯氏一族や家臣団の屋敷が散在していたようにも想像出来る。左手から流れて来た門前川は居館下で直角に曲がり右手からの瀬川と一体になって「脇」の方向に山裾を流れ去って行く。佐伯氏の居館を築くにはここしかあり得ない。
「帚木」の地名は佐伯惟治の重臣深田“伯耆”守の屋敷があった事に由来すると言われる。「惟治の乱(大友氏への謀反)」の時に主君の嫌疑を晴らす為に府内まで出向いたが不覚にも討たれた。その墓は領地のあった弥生深田の丘の上にある。「帚木」は居館を守るように居館跡の左裾にある。
「門前」まで行き惟治も虜になった妖術を使った僧春好の史跡を探したが見つからなかった。三上寺住職だった春好はその後惟治に討たれた(女色、スパイ、諸説ある)。
「脇」を過ぎて門前川河口から城山方向に旧道を歩いた。落ち着いた人肌を感じるいい道だと思った。表の新道の無愛想感がない。この旧道を昭和の往時のように戻せないものだろうか。
城山の麓の「西谷」の手前辺りから長瀬橋を渡り番匠川沿いに「稲垣」、「高畑」と佐伯氏に縁の深い地を歩いた。この堰堤からの眺めがこれ程素晴らしいとは想像していなかった。堅田合戦の契機となった、島津の外交僧玄西堂一行が佐伯惟定の手勢に討たれた「番匠淵」辺りまで行ってみて更に驚いた。河川敷一帯は水鳥の楽園であった。街の番匠川も捨てたものではない。目を転じると栂牟礼山の後ろから尺間嶽が覗き込んでいた。
稲垣橋を渡り古市の駐車場に車が見えた時、「助かった。」と嘆息の出た“長い道”であった。
<標野行き> 2022.12.12
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王)。
戸穴のある八幡地区を再訪(戸穴が元からある古い地名)。地元の歴史に造詣の深い染矢氏と面談、途中から隣の狩生地区にお住まいの野々下氏も参集してくださった。昼食時間も顧みずいつの間にか三時間が過ぎていた。その内容をここに紹介するには流石に紙面が足りない。
文献に限らず地元に残る伝承譚は歴史の真実に迫る説得力を持つ。加え、地勢から学ぶ歴史もある。両地区にはそういう歴史の痕跡が纏わりついていた。
八幡地区の古い地名の由縁については概ね得心した。一方、この地区の「霞ヶ浦」は古くより特に戸数が密集して人口が多く、名字も多様性に富んでいるとの事実は初耳であった。外部世界からの移住者が多かった事を示唆している。地勢的にも頷ける。深い入江の安全な地であり漁労にも最適の地勢である。この地区に大宮八幡の神輿の数が多いことは財力も並々ならぬものであった事を示す。海の幸の賜物であろう。大漁祈願の八幡様の存在は必須となる。
狩生地区も何やら貴人に関係する地名が多く謎めいた地である。「御所の原(浦?)」、「仮屋」、「古寺」、「ムクロウジ」、「ボウコウ」、「車」、「護江」などの地名が残る(らしい)。
彦岳の麓の一帯は古くより田地開発が進み荘園化した。八条院(智恵光院領)に寄進されている。荘園管理の政庁が置かれたであろう事は推察可能である。八幡地区に残る地名が示唆的である。更に古くは令制時代(奈良時代まで)の佐伯院の候補地でもある。そうだとすると天慶の乱時の桑原生行、佐伯是本の上陸地の可能性も出てくる。「首山」の地名も何やら現実味を帯びてくる。
時が進むと中世には大友宗麟の狩猟地となった。この地に残る「仮屋」は宗麟が鹿狩りをする時に設置した仮の居館の名残だと言われれば成程そうかと思う。馬に関係する地名が多いのも鎌倉武士の居住を匂わせる。何しろ大友氏麾下の上杉氏の河波ケ城砦がある。大宮八幡の神馬を養ったとの伝承もあるが、「的場」は武士に関係する地名として分がある。
さて頭を抱え込んだのは両地区一帯は古くは標野(皇室、貴人の領有地で立ち入りが禁止された地)であったという説である。一帯が八条院領だったことからすれば皇室関係の荘園という事は出来るが、標野は「令制以前」の御料地を意味する為、繋がってこない。
これに景行天皇、安徳天皇の伝承譚を重ねられると、もう困惑してしまうのである。安徳天皇の生存説は各地に残っている。壇ノ浦に近いこの地に残っていても不思議ではない。狩生の「御所の原」の地名がこの説を後押しする。それでも時代的に標野は腑に落ちて来ない。景行天皇となれば比較的納得性も出てくる。豊後風土記にこの地との関係性が記されている。だから天皇家への貢納地であったのであれば納得もしよう。その狩猟地となると地理的には遥か遠隔地であり納得性が無い。冒頭の歌は、「帝が蒲生野で狩猟をした際に額田王が作った」とあるように標野には狩猟地の印象が強い。
この地には荘園と放牧地と狩猟地が混在していて、その発展段階の整理がつかない。標野が更に追い打ちをかける。またまた出直して来なければならなくなった。
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋めやも(大海人皇子)。
<峠の茶屋> 2022.12.03
寒い朝で初霜が降りていた。今年初めてヒートテックの下着を身に付けた。今日は仲間と豊後側から憧れの日豊国境の梓峠を目指す。
重岡の長昌寺前から日向街道を黒土峠まで四駆で登って行く。絶景ポイントまで来ると、何と、僅かながらも眼下に雲海が生じていた。よもや佐伯地方で雲海にお目にかかるとは幸先が良い。
気持ちも昂って黒土峠を越え水ケ谷へ下っていく。集落の手前に梓峠への朽ちた道標がある。ここから左手に入り車を乗り捨てて山中に分け入って行く。旧道は明治期に廃止されて以来経験者でないと辿れない。整然とした見事な杉林が続くがどれも枝打ちが為されていない。植生的には枝がある事は当たり前なのだが杉の幹に枝が蔓延っていると異様な光景に見えてくる感覚に杉の負わされた宿命を思わざるを得ない。
やがて勾配がきつくなり道は完全に消えてしまった。ここからは旧道の痕跡を山肌に探しつつ登って行く事になるが素人目には全く分からない。いずれにしても携帯GPSは必須である。倒木に邪魔されながら痕跡を探すが見つからない。やがて行く手を岩尾根に塞がれてしまった。道を誤った。これに取り付きながら直登する。息を切らせ這い登って行くと右手から横切って来る旧道の痕跡を見つけ一安堵する。
そこからは疎林になり素人目にも比較的痕跡を見つけやすくなった。古人が踏みしめた日豊を繋ぐ官道が、日向街道が、今、足元にある事の感動がじわじわと襲って来る。あれが梓峠だと指し示されて光量が増している方角を目指し恋人が待っているが如く走り上がってしまった。
日向灘が見えた。延岡湾と遠見半島だ。可愛岳が見えた。北川渓谷が造形する稜線が秀麗だ。日向側からの旧道の尾根筋が見える。あの尾根の窪んだ辺りで大友宗麟は鉄砲を撃ちかけられたのだと仲間が告げる。理想郷を夢見た無鹿から這々の体で落ち延びて来る大友宗麟とルイス・フロイスの姿がそこに見えるようだ。一輪だけ咲いている白いサザンカがこの画架に入って来た。
これで終わりでは無い。更に右手の梓山頂上を目指す。仰ぎ見る岩峰に取り付き喘ぎ喘ぎ頂点を極めた。空は薄曇りとなっていて風が冷たい。視界も悪く先程の峠ほどの感動はない。
岩を巻いて豊後側に下り、日向側から駆け上って来る風を避け、西南戦争の堡塁跡かもしれぬ窪地に昼飯のシートを広げた。今日の最大のハイライトである。半年振りの友が握った握り飯が待っている。三種類も揃った。贅沢なことに果物に加え手作りのデザートも付いてきた。
梓峠は険し過ぎて峠の茶屋は置けなかった。旅人は水ケ谷まで下って休憩するしかなかった。今、我々だけの為に開かれた豪勢な峠の茶屋の賑わいや楽し。
<出直して来い> 2022.12.02
豊後二見ケ浦から城山は見えるのだろうか。直線距離で約10km、間にある臼坪山が視界を邪魔するはずだし、そもそも城山は周囲の山々に抜きん出る高さでもないからだ。それでも遊歩道が備わった二見ケ浦からのその山容がどうしても城山としか見えない。
買い物ついでに床木から海崎に抜けて上浦の戸穴に行ってみた。前から気になっていた土地である。ただ、「来るには未だ早い。もっと勉強して来い。」と突き放されてしまった。
古くは海部郡穂門郷の戸穴荘があった場所とも言われるが定かではない。戸穴は穂門が火穴と変じた名前とも言われる。あるいは洞穴に穴居していた地だからとも言われる。荘園や馬に縁のある古い地名も多い(按察使、代官屋敷、仮屋、的場、馬場、等)。城砦跡もある(河内城、河波ケ城)。これらを一切確認出来ず仕舞いだったのだ。
海崎駅に駐車して一帯を歩いてみるつもりだったが辿り着けず、結局、願成寺の駐車場を利用させてもらった。そこから戸穴川を遡って目的になかった彦岳の麓の山中にある宇戸(鵜戸)神社まで足を運んだ。道すがら蜜柑が収穫時期を迎えていた。神社そのものは立て替えられていていささか興覚めであった。
佐伯地方には石灰洞穴が多い。特に本匠地区に多い(地獄谷、蝙蝠洞穴、聖嶽洞穴、囲ケ嶽洞穴、等)。戸穴の宇戸洞穴も同様でここに宇戸神社がある。そもそも宇戸(鵜戸)は洞穴を意味する。その宇戸洞穴を見過ごしてしまったのだ。
折り返し今度は萬休院を目指した。途上、大友氏の家臣上杉氏の城砦とも姫嶽合戦に関係するとも伝わる左手の山陵にあるはずの河波ケ城の位置が分からない。諦めてそれではと下って来た場所一帯で古い地名を確認しようとしても住所表示が無い。電柱をみても海抜しか書いていない。人にも出会えない。肝心の地名を確認する手立てがないのだ。萬休院に登ったはいいが裏手にある河内城址への道も分からない。佐伯惟治が寄進したという萬休院は元々堅田城村にあったが江戸期に願成寺住職がこの地に移した。境内の一角に石板のような宝篋印塔(?)が祀ってあった。
戸穴へは勉強して出直すことにした。帰途、大宮八幡神社を再訪した。前回は裏手から登ったので今回は表から登ろうと思ったからだ。社務所辺りにやたら野良猫が多い。参道前の海に浮かぶ古びたセメント工場の異様な光景が神社より寧ろ畏れ多かった。
寒い日で大気の見通しが良い。対岸の四国を見たくなった。上浦湾を北上するにつれ海の景色が魅力度を増してくる。リーフデ号が投錨した辺りに目を凝らすと遠く大島が蜃気楼のように浮いて見えた。四国の山々や藤原純友の拠点となった日振島の白い岩壁もくっきり見えた。これで気分が晴れた。
戸穴についての消化不良、二見ケ浦から見た山が佐伯城だったのか否か、上浦は益々気になる悩ましい地となった。
<和尚に一喝> 2022.11.29
「馬鹿野郎。お前は何も分かっていない。」と一喝されてしまった。直川仁田原にある黒沢地蔵尊(宝盛山願王庵)を訪れた時の事である。
旧直川村の中央を久留須川が流れる。横川川が左岸から、赤木川が右岸から流れ込んでいる。その赤木川を遡ってみた。この川は向船場(むかいふなば)と神内(ごうない)の間に流れ出てくる。上流に進むと市屋敷、堂師、立箱、道の内、と気になる地名ばかりである。河口の神内屋形に県指定文化財釈迦堂石幢(1549年造立)がある。この辺りはかつて堅田、日向北川、仁田原、宇目を結ぶ交通の要衝で赤木川沿いは歴史道でもある。屋形とあるから一帯を支配する豪族が住んでいたのであろう。旧中野村とも対岸の神内から小川越でつながっている。
道の内まで行くと川は分岐する。左に進むと吹原峠を越えて堅田に出る。真っ直ぐ進むと直川ダムがありその右岸から陸地峠へ辿り着く。左岸を進むと仁田原に出る。その途上に黒沢地蔵尊があり本来の陸地峠への旧道はここを通っている。
この赤木川沿いは豊薩戦時(1587年)、島津家久の軍勢が吹原峠を越えて堅田に侵入し、そして撤退していった道であり、西南戦争時(1877年)、両軍の激戦地となった陸地峠への道でもある。左手の吹原に入ると石幢と五輪塔(1496年造立)がある。その直ぐ先に佐伯惟治(1527年没)と嫡男千代鶴を祀った富尾神社がある。惟治の刀が御神霊らしい。吹原に隠棲した安藤氏が1534年に勧請した。1689年には旧中野村三股の白山神社の杖踊りが伝授されている。
黒沢地蔵尊の前の道で立ち話をしていた御仁に声をかけた。そこで「庵主さんですか。」と尋ねて一喝されたのである。「庵は修行を終えた高僧に与えられるもの、それが庵主。俺は住職だ。」と、屁理屈にも聞こえるが何とも不遜な人物である。それからあれやこれや二時間ほど話し込んでしまった。帰り際には記念写真に納まり、「朝方、鶴見で獲れた鯵が届いているから持っていけ。」という関係になっていた。
先般、袖にされた堅田の江国寺の住職がご子息だと分かった。17年前に亡くなった妹の供養をしてくれたのがこの和尚だったことも分かった。この日は和尚の御母堂の命日だそうで不思議な巡り合わせであった。母の薬を貰いに市内まで出て帰路にふと寄り道をしたくなった。その結果が件の如きとなった。一期一会を思わざるを得ない。
夕食は和尚に貰った鯵を自らさばいて刺身と塩焼きにして母に食わせた。「不味い。」とまでは言わないが「腕を磨け。」とこっちも一喝されてしまった。
<神話の国の娘達> 2022.11.26
宮崎まで遠征してwalkingした。延岡まで車で行きそこから電車を利用した。特急車両にIntercity around Kyushuと記されていた。欧州にICE(Intercity Express)と言う有名な鉄道がある。こんな地方に何だかハイセンスでいい感じではないか。
美々津、神武天皇が東征の船出をした。そこに耳川が流れ込む。島津勢に追われた大友勢が殲滅された川である。
都農、日向一宮の都農神社がある。神武天皇が東征時に参拝した由緒ある神社でもあるが、大友氏の日向侵攻時に神社仏閣の破壊工作の被害を受け貴重な文物や社殿が焼失した。高鍋、小丸川の上流に佐伯惟教父子が戦死した高城合戦地がある。佐土原、戦国大名伊東氏の本拠地である。曽我兄弟の仇討ち相手伊東祐経の流れを汲む。
かつて日向は伊東氏が支配し島津氏と拮抗した。従属していた縣(延岡)の土持氏が島津氏に寝返り、伊東氏は島津氏に敗走、大友氏を頼った。これをきっかけに大友氏は日向に侵攻、土持氏を滅亡させ高城で島津氏と直接対決する。九州の関ヶ原合戦と呼ばれる高城耳川戦である。高城が主戦場となり敗れた大友勢は島津氏の追い討ちに耳川で殲滅される。この間30km弱、敗兵には逃げ場がない平地が続き増水した耳川で立ち尽くすしかなかった。統制を失った大友勢に背水の陣はない。
神話の国の日向には南北に九州産地の威容が延々と続く。神々が住んでいても不思議では無い、まことにそういう山容をしている。帰路は友人の車に同乗し丘陵地を北上したが車窓の日向灘は山々にも負けぬ圧倒的な夕景であった。自然の究極は神々を産み出すのである。
鈍行の特急が宮崎に着いた。神話の国に集う娘達と共にwalkingの始まりである。12kmを何と5時間もかかってしまった。場所は女子プロ本年最終戦のリコーカップのコース内にある。静粛な雰囲気の中に張り詰めた空気が充満し戦う娘達にはまさに神々が取り憑いているようであった。それに寄り添いながら歩くのである。時間を要さざるを得ない。渋野日向子が昨夜食事に訪れた”みやちく”の宮崎牛ステーキ弁当でエネルギー補給して後半に臨んだ。
小柄な娘達であったがいずれも下半身は見事に鍛えられていて己のwalkingの下半身とはまるで異なものであった。どの娘が神々に祝福されるか最終日が楽しみであるが、流石に連日のwalkingには付き合えない。
<薩摩兵の哀歌> 2022.11.25
「毎朝、空を眺めるのが好きじゃ。雲が流れるのを見るのが好きじゃ。」と診察帰りの車中で母が漏らした。「片雲の風に誘はれて漂白の思ひやまず」、の芭蕉の一節が浮かんだ。
昨日の雨が上がって今日は大気が透徹していた。山の空はさぞかし美しいに違いない。早めに昼食を済ませ、片雲の風に乗って宇目方面に車を走らせた。かつての日向街道を辿ってみようと思ったのである。柿木から市園川沿いに重岡まで南進、キリシタン・ルイザの墓や西南戦争で官軍の拠点となった長昌寺のある辺りから本道をそれて里に入る。田野の磨崖仏を左手に敷倉川の谷筋から古戦場・黒土峠(545m)まで登り、日豊国境の梓峠(約700m)の麓にある水ケ谷集落(440m)まで行った。
黒土峠の手前当たりで右手に杉林が開けて佐伯五山の絶景が待っていた。今日一番の空だが母には持って帰れない。黒土峠を越えて水ケ谷まで降りていくと行き止まり、集落の端に板戸山(747m)への登り口がある。もっといい空が見えるかもしれないとつい欲が出た。落葉の季節のお陰で林間から今しか見えない絶景がここにもあった。日向灘が見える。北東には元越山を始めとして著名な山々が見える。西側の傾山、北西の佩盾山は言うに及ばす、その向こうにくじゆう連山、由布岳、鶴見岳がうっすらと見えた。
旧道となったこの日向街道は戦国期の島津・大友の豊薩戦(1586年)や明治の西南戦争(1877年)で豊薩や官軍の兵が侵攻し、そして撤退して行った戦火の道でもある。黒土峠をはじめ日豊国境の尾根には西南戦争で双方が築いた堡塁跡が五百ヶ所以上残っている。
大友宗麟も島津家久もこの道を逃げ帰って行った。佐伯惟定に先導されて豊臣秀長も藤堂高虎もこの道から薩摩征伐に向かった。この雄大で神々しいまでの風景を眺めながら行軍した兵達は何を思ったであろう。その神性を帯びた光景に戦う気が失せた兵も多かったのでは無いだろうか。
帰路、薩摩の兵が襲った長昌寺で今日初めて地元の人に出会った。豊薩戦時に近くの朝日岳城主であった柴田紹安の子孫であると言う。一族は滅亡したと思っていただけに驚いた。ご自宅にお邪魔して話し込んでしまう厚遇を得た。
宇目には生々しい西南戦争の記憶が未だ息づいている。長昌寺には西南戦争で戦死した名もない多くの薩摩兵が葬られている。150年後の現在でも鹿児島から先祖を探しに子孫が訪れたと住職の奥さんが話してくれた。三名の身元が今頃判明したと言うから哀しくも感動的な話である。柴田紹安の子孫の畑の一角にも薩摩兵が埋葬されていた。曽祖父と祖父が不憫に思い埋葬したと言う。今も御先祖同様に慰霊を欠かさぬそうである。
この道はまさにロングトレイルに相応しい。自然と歴史に溢れ語部がいる。何気ない朝の母の一言がこの日を豊かにした。
<文人達が越えた道> 2022.11.21
車の走行音が断続的に谷底から湧き上がって来る。この坂道を登るには車さえも息切れする。その遥か上の旧道を歩いている。峠に近づくにつれパッタリと人工音は消えてカサカサと落葉の葉擦れや落下音に包み込まれる。半月も過ぎれば谷向こうの山々を含めて見事な紅葉を堪能出来るだろう。出会ったのは地面を掘り起こして朝食中の猪一頭のみ、ブヒッと驚き声(多分)を発して転げ落ちていった。この逍遥ルートは素晴らしい。峠までの往復9km弱、二時間ほどのショートトレイルであった。
文人達はこの峠道を通って佐伯に来た。当時は道幅もこの半分もなかったに違いない。谷にトンネルが開通(1963年)するまではこの峠道が日豊の主要路でかつ道中最大の難所だった。この覚束ない道をかつてバスやトラックが通ったとは驚きである。今更ながら佐伯地方の隔絶性を想った。
中の谷峠(川登峠)へは、佐伯側は弥生・宇藤木から、臼杵側は野津・川登から登る。臼杵側の新道のトンネル入口に咸宜園を開いた広瀬淡窓(儒学者、教育者)の詩碑が立っている。緊張状態のドライバーがこれに気づくことはまずもってないだろう。淡窓は14歳の時に佐伯藩四教堂教授松下松蔭に師事すべくこの峠を越えた。途上、夜の帳が降りた為に峠近くの民家に止宿、霊気漂う山中に狼の咆哮を聴きおののいている。国木田独歩も歩いた。種田山頭火もそうだったろうか。徳富蘆花はどうだったろうか。
往路は少年淡窓と共に宇藤木まで降ることにした。落葉した林間からは、墨絵の如く、冠岳、椿山、尺魔山の威容が絶えず見え隠れして何度となく立ち止まっては目を凝らす。枯葉が小雨のごとくハラハラと落ちて来る。文人達も同じ光景を堪能しつつも心細い思いで降っていったに違いない。宇藤木集落に至っても佐伯の町までは谷底の難路を更に下っていかねばならなかった。それ故にこそ、出迎えてくれる佐伯の町が、そこに暮らす人々が、愛しくてならなかったに違いない。
次は峠から引き返すのではなく越えていかねばなるまい。佐伯地方へのロングトレイルの始まりの道を踏みしめておかねば気が済まない。その時、淡窓も見送ってやろう。
<尾浦物語> 2022.11.18
畑野浦トンネルを抜けると、偶然、明石秋室(佐伯藩四教堂教授、御書物奉行、郡代奉行、当時藩随一の文人)の詩碑を見つけた。漢詩題は「入津坂(畑野浦峠)」、1815年10月、領内巡視の折に峠の茶屋で詠んだ。その漢詩のままの同じ時節の風景が眼下に広がっていた。秋室は領内のあちこちで漢詩を詠んでいて本匠でも「仏譚(仏座)」を詠んでいる。何だかいい日になる気がした。
以前から気になっていた蒲江地区の最北の入江、尾浦を訪ねた。尾浦は「かます網代と真浦」のニ集落から成る。海に開けた部分を除けば400m級の山に囲まれたすり鉢状の地形である。両集落はその底に南北に張り付いている。1970年に南隣の畑野浦から海岸道路が出来るまで人々は峠越えしてすり鉢の底から這い出ていた。
その海岸の光景が素晴らしいに違いないと尾浦から畑野浦にある江武戸神社までこの旧道を歩くことにした。「海岸ショートトレイル」である。
「人に出会ったら必ず声を掛けるべし」という友人の言葉を金言にしている。地元を巡っていて一期一会が腑に落ちるようになった。無論、都会では不審者になるからやらない。ただ、故郷では現実的には平日は殆ど人に出会わない。詩碑に同様に偶然、畑仕事をしている老人を見つけた。早速、声をかけ立ち話をさせてもらったが話の内容に既に満たされた。だから気分も軽やかに旧道へと踏み出した。
堅田の天徳寺に大友宗麟の墓がある。宗麟を継いだ嫡男義統が豊臣秀吉により豊後除国になった時、宗麟の旧臣山田、小野、津崎等の七人が津久見の宗麟墓より墓石と仏像を佐伯に持ち去り菩提した。宗麟は天徳寺を名乗っていた。新領主毛利高政はこれら旧臣を鶴見鮪浦と蒲江尾浦に退去させた。山田、小野は「尾浦かます網代」に移住しこの地を開発した。
1828年に佐伯藩最大の百姓一揆が起こり首謀者は打首、流刑、所替えとなった。直川の正定寺(1523年創建)の裏手の於利宇峠(オリヲ、気になる名称である)に集結、時の家老戸倉綾部が鎮定した。直川の三名はそれぞれ深島に遠島、蒲江浦、入津浦へ所替えとなった。「尾浦真浦」には正定寺の檀徒としてそれ以前の一揆によって所替えとなっていた郷土の義民が先住していた。その後、人々はここを頼った。尾浦で山の民が海の民になった。真浦の人々は山本、鳴海、吉田を名乗った。
かます網代の老人は86歳で姓は山田と言った。この集落の姓は殆ど山田だ、という。真浦の姓を問うと今は殆どが鳴海姓になっているという。檀家寺はそれぞれ堅田の天徳寺と直川の正定寺に見事に別れていた。歴史伝承通り数百年を経て今も檀徒が住んでいる。
旧道は荒れ放題で中間地点で道が崩落していて進めない。道の方は短期間で断絶、自死していた。老人は鹿と猪が崩落を加速させたと言うが、そもそもこの懸崖を削って道を作った事に無理があった。昭和の時代まで峠越えをしていたと、老人は懐かしそうにその方角を見上げて指差した。旧道も峠越えも自然回帰中にある。散歩中の老人の妻が漏らした。自然は素晴らしいが不便この上無し。
<神々の地> 2022.11.16
“時間橋”という橋を渡った。ミステリアスな時空に入り込んでいくような気分にさせる名である。宇目の中岳川に架かっている。行く先は鷹鳥屋神社である。”元々の時間橋”は今はダム湖になった川の底に沈んでいる。
鷹鳥屋山(たかどやま)の標高は639mで神社は山頂をやや降ったところにある。鷹鳥屋山一帯は県指定天然記念物の森閑とした自然林に覆われていて長い参道には500年を越す杉や樅の巨木がひしめいていて日中でも暗い。
拝殿の右手から頂上まで10分とかからない。岩場に立つと日豊の境界線をなす佐伯五山が藤河内渓谷の向こうに広がっていて息を呑む。
神社の起こりは、13世紀、大友氏がこの国境守護の為に矢野氏に祀らせた事による。熊野権現を発祥とする為、熊野三山(本宮、那智宮、熊野宮)を模して近傍に残りの二社(木浦熊野社、柳瀬熊野社)を配している。
国道326号線から7kmの急勾配を車で登る。宇目の平均標高は220m前後、駐車場までの350m程の標高差を車はやっこらやっこら登らねばならない。参道入口近くまで登りつくと谷筋に数軒の真弓集落がある。人の営みの不思議を思わざるを得ない。ここまでゴミ収集車は辛い。犬に吠えられた。
豊後大野と延岡を繋ぐ国道326号線は拡幅工事で県南の幹線道路として蘇った。昔の官道の一部でもある。長らく県南の幹線であった国道10号線はその東側を走る無料高速道路とに挟まれて寂れてしまった。皮肉にもお陰で直川、宇目、延岡までは自然探勝路の如くである。沿線を賑わした食事処や遊興施設が完全に無くなり沿線が自然に回帰した為だ。因みに日豊国境にある豊後側の宗太郎集落は意外にも宇目でもっとも標高が低い(95m)。
鷹鳥屋神社を後に北川沿いに国道326号線で延岡まで下り、五ヶ瀬川から分かれる大瀬川の”鮎やな”で天然物の鮎料理を昼食とした。”日本の香り風景百選”なるものも初めて知ったが、それほどに平安時代からこの地の鮎は有名だったらしい。
延岡には、北から北川、祝子川、五ヶ瀬川、大瀬川がほぼ一点に流れ込んで来る。延岡はこれらの川が日豊の山々を削って出来た堆積地にある。その延岡から日豊国境にある奇峰大崩山(1,644m)が眼前に迫って見える。そこに祝子川の源流がある。
“祝子川(ほうりがわ)”と読む。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの子である山幸彦(火遠理命、ほうりのみこと)がここに過ごした事に由来する。ニニギノミコトは五ヶ瀬川上流の高千穂に降臨した。ややこしいが、父のニニギノミコトの御陵墓参考地は祝子川ではなく、可愛岳(えのだけ、728m)の麓、北川沿いにある。”日向の可愛山陵に葬りまつる”と日本書紀にあるからである。
その直ぐ側に西郷隆盛の宿陣跡かある。流石に官軍は御陵墓地を攻撃する事はなかろうとこの地を最期の陣に定めたらしい。官軍はその可愛岳に陣を敷き谷地にある宿陣を砲撃して来たのであるから西郷も立つ瀬がない。西郷はその可愛岳山中を抜けて脱出し鹿児島で神になった。
この日豊国境地域には佐伯惟治を祀る神社が多い。惟治も神となり一帯の人々に畏れられた。
雲一つない晴天下、新旧の神々が入り乱れ棲む、ちらほら紅葉の始まったこのミステリアスな神域に再び踏み入り、ゆるりゆるりと帰途についた。
<本匠トレイル> 2022.11.14
小半鍾乳洞前に駐車して井ノ上の本匠地区最古の天神社(宇戸神社合祀、社伝では10世紀)まで往復約7kmをwalking。本匠地区には石灰岩層が東西に走っていて番匠川はこれを削って流れる。渓谷美が素晴らしいルートである。
ただその石灰岩を砕石していた山体が崩壊し被害も発生している。途中、その崩壊した山体を左に見上げて進むと宇戸のだき(嶽)と呼ばれる懸崖が見えて来る。本匠の”耶馬”である。紅葉が一部先行して真っ赤に染まっていた。朝日が指してくればさぞかし美しいだろう。
水流は石灰岩層を穿ちながら蛇行を繰り返し瀬と淵を作る。番匠川の水質は11年間連続して九州一を誇る。どの淵も見事な碧さである。左手に鎧淵が見えて来る。因みに水深が深く水中に含まれる物質が多いと光は碧く散乱する。矛盾するが、兎に角、不純物質の水は澄んでいる。
やがて囲ケ嶽が視野に入ってくる。戦国期、島津軍が上流から侵攻してきた折に、この山の岩穴を砦として地元民が岩石を雨と霰の如く落として島津軍を壊滅させたことで名高い。
その対岸にある宿善寺のナギは樹齢400年で佐伯藩祖毛利高政が朝鮮から持ち帰ったと伝えられる。臼坪の五所明神、弥生江良の洞明寺にもある。ただ、宿善寺のものだけが雄株で結実に寄与している。いずれも県指定の天然記念物である。
更に進むと寄木の大だき(嶽)が淵に浮かぶが如く見えて来る。頂上は平坦で古くは風流人がそこで酒宴を催した。「寄木酒宴之事」として「大友興廃記」に取り上げられている。
折り返し点にある本匠最古の天神社も既に紅葉に覆われていた。
江戸時代、領内巡視の為に、直川の横川竹ノ脇から峠越えして因尾に入った藩主一行も、右に左にこの川の瀬を渡河しながら下って行った。その当時と変わりないであろう見事な渓谷美が楽しめる。ここは渓谷本路中のお勧め部分、時間が過ぎるのを忘れてしまうであろう。
<惟治の陣羽織> 2022.11.13
灘に住む叔父を見舞ったついでに堅田地方に足を伸ばした。walkingではなく車であるが、ここでも地元のおばちゃんに出会った。浪越(”なんごう”と読む)の常楽寺と市福所の潜龍と彫られた五輪塔に行ってみたくなったからである。
常楽寺については佐伯惟治が日向に落ちていく途上に立ち寄り陣羽織を奉納した寺と耳にした。恥ずかしながらこれまでその伝承を知らなかった。史談会の資料によると御戸帳(”みとちょう”、神仏を安置した逗子などの前にかける小さな覆い)の金襴は惟治が奉納した陣羽織を利用しているとのことで裏の白絹には大檀君(惟治)とあるらしい。佐伯惟定がこれを旗に用いて侵攻してきた島津勢に大勝したと伝承されている。開山は鎌倉時代で1586年の堅田合戦で戦火に合い廃絶、江戸寛保年間に再建されている。逗子の隣にある朽ちた仏像三体(佐伯でもっとも古い仏像)は本来であれば国宝級のものであったと評価されている。行かないでおれようか。
灘から木立川を渡り津志河内を経由して泥谷に出る。初めて通る道であった。何と期待していた常楽寺は倒壊寸前の朽ち寺であった。悄然として石段を下りてくると目の前の高台の家の前でおばちゃんが作業をしていた。経緯を説明して顛末を問うと色々と喋ってくれるが今一つ納得がいかない。一つだけいい情報を得た。陣羽織(御戸帳のことか)は昭和30年頃に本寺の江国寺に移したと言う(一説に陣羽織は切り刻んで第二次大戦の出征兵士に惟治の神護を頼み持たせたとも)。
潜龍の五輪塔は今日は諦めるしかない。江国寺を目指すとなんとここまで来る途上にあった。末寺の常楽寺と好対照で今を盛りに建て替え工事中で近寄りがたい。住職らしき御仁がいたので尋ねようとすると、今から法事があるのでと、丁重に断られてしまった。
空しく帰宅し走行経路や江国寺について調べていると今まで大変な勘違いをしていた事実を発見した。この江国寺の前がかつての天領堅田地方で殷賑を極めた柏江港だったのである。木立川の入り江付近を柏江港跡と誤解していたことが分った。ふと菅一郎画伯の絵が脳裏に浮かんできた。その絵画がまさに走って来た光景に瓜二つであったのである。
何という失態であろう。更に調べていくと、江国寺は佐伯藩のお家騒動の元凶でこの地が天領となった張本人の森吉安(藩祖高政の弟)の居宅跡で、その墓が寺の裏手にあることが分った。いよいよ迂闊であった。ぶらぶらするのは得意ではあるが、やはり事前の調査を怠っては駄目だと反省した。
決めた。独善的ではあるがこの走行ルートは当会が検証すべきロングトレイルの歴史探訪ルートの優先コースにしよう。懐かしい田園風景が残っているし堅田川の向こうには宇山城跡や城八幡の森が見える。この地に侵入してきた大内水軍が見た光景もこのようであったに違いない。車を捨てて歩けば更に歴史物語を堪能出来ると確信を得たのである。再訪を期す。