<ふるさとの光景>
<続 白い一日> 2024.11.13
(白い一日、2022.12.24)
遡れば高校時代より今に至るまで市内から家路につくと畑木(弥生)を過ぎた辺りから決まって巨大な山塊が視野を塞いできた。さほど高い山ではないが山容は威圧的である。一方、実家から眺めるとその位置にある事が必然のような欠かす事の出来ない絶景を構成する山でもあった。ふたこぶラクダのようにピークが二つある。
無名の山としてやり過ごして来たが、最近、その名前を知った。「鳶山(383m)」と言う。俄然、縦走すべき山に浮上した。
実家の裏山に白山神社(本匠)がある。歩いて二十分程のところにも白山神社(弥生)がある。鳶山の麓にある神社がそれでそこに登山口がある。鳶山は修験の山だろう。
江戸期に特別の地位を与えられた神社を「佐伯十二社」と呼んだ。一般的には後者がその栄誉に浴しているが我が白山神社が本来、十二社の一つである事は地元郷土史家が検証済みである。豊臣時代まで佐伯地方を支配した佐伯氏10代惟治(弥生)、14代惟定(本匠)がそれぞれを勧請した。今、その地位を争ってみても往時を偲ぶ事さえ出来ないのであるからあまり意味がない。
そこから鳶山尾根を伝い、北側にもう一つある連山を越えて「椿山」の枝尾根にある「風戸山」まで縦走した。風戸山はかつて八十余戸を有する峠の大集落で本匠への主たる入り口でもあった。「寺屋敷跡」や「鵜戸神社跡」が山中に残っている。そこから風戸集落(本匠)に降って行く峡谷を「白谷」という。石灰岩脈を穿って出来た谷である。「地獄谷」や「蝙蝠洞穴」の景勝地がある。かつて「豊後国志」編纂の為に探索に来訪した南画の大家「田能村竹田」もその光景を激賞した。彼も風戸山を越えて来たに違いない。
本匠地区の北側には東西方向に石灰岩脈が細く帯状に走っている。その位置上に懸崖、洞穴、奇岩が散在し多彩な景観を造っていて白谷峡谷もその一つである。
さて、この峠の南側にある鳶山にも石灰岩脈が東西に二本貫いている。登ってみるとそれが山や尾根の形状に影響を及ぼしていた。山の傾きは尾根の地質による。勾配がきついという事は大方は岩場である。この山の南側尾根の傾斜角度は六十度はあるのではないか。そこに岩盤が露出している事を容易に想像出来たはずなのだが、迂闊であった。中腹には亀裂の入った巨大な石灰岩石群が行手を阻んでいた。息も絶え絶えに乗り越えるとなだらかな小ピークに石祠が迎えてくれた。本体は失われていたが側面に”白山中”と刻まれており白山神社の氏子によるものと分かる。多分、雨乞い祈願の石祠であろう。
やがて鳶山頂上に達し北側の連山に向かう。岩場の馬の背を経由して山名不明の三角点に立った。さあ下りである。尾根は登り同様に岩場となる。ここにも石灰岩脈が貫いている事が明白である。因みにこの山麓の白谷峡谷側に石灰砕石場があって景観を台無しにしている。
登りに比べやや小振りの石灰岩石群からなる尾根がなだらかに続いて風戸山に出た。かつて賑わった今は人も住まぬ廃墟となった集落の営みに思いを馳せつ、石灰岩による自然の造形美を堪能した。
本匠の石灰岩脈を番匠川とその支流が侵食する景観はまさに「白い」イメージでしかない。鳶山はその事を思い知らされた本匠への関門である。谷口(弥生)から風戸山の峠道を越えて白谷峡谷に降りる”白い”古道の楽しみ方もありそうである。
<龍が火を吹いた> 2024.10.27
鶴見半島は豊後水道にまるで龍が潜り込んで行くような形状をしている。真ん中あたりがその一番細い部分で、ここに猿戸と間越を結ぶ”ひょっとん峠”がある。標高は60mと半島の一番低い部分でもある。その低さ故に佐伯湾を挟んで北岸に伸びる四浦半島の蒲戸崎に立つと、この峠部分を通じて佐伯湾と米水津湾の二つの海が光り輝いて見える。
その峠から鶴御崎まで約5kmの”自然探勝路”が通じている。古道を利用した道でもあるが、今は探勝を目的に訪れる人は皆無であろう。この尾根古道沿いに長大なシシ垣が眠っている。この尾根古道を仲間と縦走した。半島手前側(西側)にも同様のシシ垣が眠っているが未だ縦走までには至っていない。
シシ垣の光景は明らかに違って見えた。半島手前のシシ垣は女性的で並走する古道は狭く、今回の半島突端側(東側)のそれは男性的で道は広々と堂々としていた。加え、尾根の地勢(上下動、屈曲)、地質(土壌、岩盤)に合わせてシシ垣の構造も変化に冨み、力強く野生味に溢れていた。
このシシ垣は半島北側の丹賀浦と梶寄浦の二集落をそれぞれ囲うように築かれているのだが、尾根古道沿いに1kmほど(2箇所)竜骨の如く万里の長城の如く途切れる事なく並走している。圧巻である。
多くは尾根を削り堀を作りその上に石積みしているが、岩を削ってシシ垣として利用している箇所もある。中には3mに達しようかと思われる城壁のようなシシ垣もある。
更に驚くべきはこの長大なシシ垣が囲う段々畑が”城壁内”に埋もれているという事実である。何層の石積みが階段状に尾根近くまで組まれているのである。人々が、生きる為にシシ垣と段々畑に営々と想像を絶する膨大なエネルギーを費やしてきた事を、ここに来れば実感出来るであろう。感動的である。
本来、この地が「佐伯城址、歴史と文学の道」を凌ぐ佐伯一番の観光史跡であってもおかしくない。ここにしか無い独自性がそう主張している。ここは国木田独歩の「鹿狩り」の舞台でもある。麓にはキリシタン隠棲を含め数々の伝承譚も残っている。まさに隠れた「歴史と文学の道」であろう。これだけの魅力資源を放置している意味が分からない。
さて縦走を終えて鶴御崎灯台展望台で車座になって皆で”ジイジの握り飯”を食った。すると突如、海中から虹が立ち上がって来た。海中に潜む龍が火を吹いたのだ。
<麦の穂が金色に輝いていた頃> 2024.10.24
よもや”草刈機”を担いで尾根歩きをやることになろうとは思いもしなかった。
鶴見半島の尾根には古道が貫いており今も静かに時を重ねている。”シシ垣”もこの古道に沿うように延びていて、総距離は10kmに及び浦々の段々畑を害獣から護って来た。これほどの規模にも関わらず、百年、二百年を超えてほぼ原形を留めているシシ垣は日本でも稀有なのではなかろうか。”一級の民俗遺産”であろう。そのシシ垣が囲む段々畑もまた劣らず壮観である。こちらも静かに山中に眠っている。
大分県のシシ垣の九割以上は佐伯地方の海岸線に築かれてきた。蒲江に多く残るが旧生活道(古道)と並行して延々と続くシシ垣としては鶴見半島のものに一目おかざるを得ない。シシ垣には木柵、土塁、石積みなどがあるが佐伯地方のシシ垣は全て石積みであるから見応えがある。文化庁による「文化的景観」に指定されても何ら不思議ではない見事さである。
そのシシ垣に並走する古道の実態調査を兼ね、今は利用される事のない「自然探勝路」になっている部分に限定して、歩けるように草刈りをやろうと思い立った。
アップダウンを繰り返す探勝路の700mほどを往復し、朽木や灌木を取り除いた。草刈り機を作動させながらでは体力的にもそれが限界であった。ただ夏草は殆ど古道を阻んではいなかった。陽光が地面に届かないから草が生えてこないのだ。
段々畑に人の手が入らなくなって久しい。この山中にシシ垣見物に訪れる者も皆無に等しく、何よりシシ垣の存在そのものを最早知らない人の方が多い気がする。だから森が深く厚くなって光が届かなくなったのだ。
ところどころシシ垣が崩落し石が路上に転がってはいたものの、概ね枯葉が堆積してふかふかのマットのような道であった。
かつてはこの尾根や山の斜面には光が溢れ跳ね回っていた。まるで万里の長城の如くシシ垣が尾根上に白く輝き、その尾根まで達した幾重の段々畑には金色に輝く麦の穂がたなびいていた。その光景を海に浮かべた船から眺めていた人々がそこに暮らしていたのだ。もう戻って来てはくれない暮らしの景観がそこにあった。
草刈り機を持ち込む行為は悪あがきにも等しいが、その過ぎ去った日々に僅かなりと近づくきっかけにならぬとも限らぬ。そこに陽光を取り戻してやりたい思いが只々募るばかりなのだ。
<小浦のマチュピチュ> 2024.10.20
”あの尾根”を歩きたいと思っていた。木立の知人の屋根に据え付けられた天体観測所から眺めていた時に東の空を二分して真横に引かれた線のように見えた尾根である。江戸期より城下と下浦を繋ぐ「浦代峠越」が通っていた尾根である。
この尾根は「僻南のまほろばを歩く旅」(市民大学講座発表テーマ)の初期ルートである「龍の背に乗る旅」(鶴見半島)と「海天空の旅」(元越山天空ルート)を接続する道の開発の鍵になる尾根でもある。
木立側から元越山中腹まで登り左に分岐するこの尾根に取り付く。そこから鶴見半島に続く尾根道が拓けるか踏査する事が目的である。幸いにも連日の雨がこの日だけ止んだ。懸念された足元もぬかるむ事なく雨水は地表深くすっかり吸収されていた。ただ強い北西風が終始吹き荒び尾根歩きには厄介な日となった。佐伯湾も寒々と白く波立っていた。鶴見半島尾根上の大河内山、殿上山を経由して「小浦中越ふれあいトンネル」の上を過ぎた辺りから米水津小浦に無事下山した。
接続尾根は理想的な形で繋がっていた。特に鶴見半島に入ると浦代浦から登って来た古道(松浦越)が”龍の背”に達しており、そこから鶴御崎に向かって延々と伸びていた。かつて人々はこの道を生活道として使っていた。照葉樹林を抜けていく素晴らしい尾根道である。この龍の背をかつて「国木田独歩」も踏み締めた。感慨をもって歩いた。
想定外の発見もあった。浦代峠には元越山側から順番に三つの”堀切”があった。三つの峠道があったという事である。二つには”茶屋跡”が残っていた。最初の堀切が正真正銘の「浦代峠」であり、明治26年11月11日、独歩兄弟は木立側からここに至り元越山を目指した。
浦代浦側に風を避けるように茶屋跡が残っていて、屋根瓦、厠、竈、排水溝など生活の痕跡を今も留めている。独歩が登った時分には一人暮らしの宮川百蔵老人がここに住んでいた。独歩兄弟が休憩している姿まで立ち浮かんでくる。その元越山への道も今通って来た尾根沿いに茶屋跡から並走していた。因みに兄弟は帰路、木立の村娘に背負っていた籠から10個の柿をもらい朝飯に5個を食した。
さて独歩は明治26年12月3日の日曜日に鶴見半島で「鹿狩り」をやっている。翌日、宿泊した猿戸から「陸路」浦代峠を通って佐伯町に帰った。小説「鹿狩り」ではこの峠で同行の「判事さん」が「中根のおじさん」の為に黒い鳥(岩烏)を撃った。黒い鳥は「狂人の薬」になる。鳥を撃った背景は小説に詳しい。
つまり独歩が帰路歩いたに違いない尾根道を逆方向に浦代峠から途中の小浦まで辿ったという事である。道行き感慨深いものがあった。
小浦での下山時にも驚きの光景が出迎えてくれた。集落の裏山の急傾斜地にシシ垣と段々畑がびっしりと張り付いていたのである。まるで発見されるまで密林に埋もれていた”マチュピチュ”のようではないか。”小浦のマチュピチュ”と名付けてもいいほどのインパクトである。鶴見半島の段々畑に比較して畑地は一つ一つが狭隘で箱庭の如くであるが十重二十重に天に駆け上っていた。その構築にどれだけの労力を要したのであろう、切迫した食糧事情を思うに胸を突かれた。海岸地方にはあちらこちらにこのような生活遺構が埋もれている。古道を歩く意味は父祖の生活の歴史を学ぶ事でもある。この尾根道は実にいい。訪れるべし。
<"樹木医"の道> 2024.10.10
人工林に出会うとホッとするのが何だかおかしかった。
蒲江畑野浦は背後を円弧状の稜線で囲まれていてその標高は平均して500m超はあるのではなかろうか。最高点は590mに達するが、近くの神楽山や石草峰より高いにも関わらず、不思議な事に山の名前は不明である。
藩政期の文人明石秋室は入津坂峠に立ち畑野浦方面の眺望に感嘆し漢詩を詠んだ。その見事な景観を造形する稜線を歩くのだ。熱暑がようやく下火になって待望していた稜線歩きをこの地に決めた。快晴に心も踊る。
この稜線に達するにはほぼ海水面から登る事になるから標高差が足腰に効く。しかも海に迫り来る稜線だから勾配もきつい。遊歩道が整備されている南麓の”お大師の森”から取り付き石草峰の手前の中腹尾根から下山した。
意外と時間を要してしまったのは、稜線上に多種にわたる巨木が次々と立ち現れて来てその観察に同行の”樹木医達”が釘付けになってしまったからだ。前半は巨大な松がまるで並木道を作っているかのように姿を晒し続けて圧巻である。途中からは古地図にも記されていないかつての尾根道跡が並走する。素晴らしい尾根である。
やがて旧道の畑野浦越を横切った辺りから暫く低木の薮を縫うように歩く事になる。残念ながら展望のきくところは少ない。樹間に入津湾や豊後水道が見え隠れするものの見通せないのが苛立たしくもある。
海岸の山の魅力は何といっても海との色彩の対照性にあり、広大な水の広がりを俯瞰出来る開放感にある。だから誰ぞこの邪魔者を伐採してくれ。佐伯地方の稜線歩きに付きもののいつもの心の叫びである。
下りの尾根でもまた見事な椎の巨木の連続に圧倒される。樹木医達の重い足取りに生気が戻ってくるような枝振りだ。
さて、尾根歩きは楽しいが、孤高で崇高な巨木達の名前を知らない事の不消化感が残った。山歩きの魅力を増幅する必携知識は植生学習にある。樹木医達にそう囁かれている気がした。
冒頭の言葉は諧謔的である。ここまで深い自然林を歩くと偶に現れる人の手の入った人工林にホッとするのだ。不思議な感情であった。樹木の知識を欠いた結果なのだ。彼らとの繋がりを持てない関係性が彼我間に存在するからだろう。見ず知らずの群衆の中に知り合いを見つけて心が動くのと同じ感情なのだ。付け焼き刃でも次の尾根歩きまで植生学習が間に合えばいいのだが。
<日本一低い林道> 2024.09.27
知人の招きで鶴見振興局長に同行して久し振りに半島尾根のシシ垣を訪ねた。鶴見スカイライン(林道松浦有明線)は全線使えるようになっていた。途中シシ垣を探訪し、地松浦から猿戸(ひょっとん峠)まで一気に走波出来た。因みに猿戸は国木田独歩が”鹿狩り”の為に葛港を発ち深夜に上陸した港である。彼も同じシシ垣を見、シシ垣沿いに鹿を追った。
この道は舗装はしているものの最早車道としての機能は喪失していると言っていい。両脇は草莽続きで至る所落石があり、”みすぼらしい山道”の印象である。しかも昼日中から鹿に狸にと立ち現れて獣道でもあるまいに。その名称とのギャップは甚だしい。ただ、ところどころ見え隠れする眺望は素晴らしい(はずなのだ)。ため息をつくほどの眺望は”チラリズム”の粋、見えそうで見えないのが何とももどかしい。樹木が成長する前は道すがら四方の絶景が楽しめたそうだ。
この道はこのまま自然の意思に委ねたらどうだろう。草莽がはびこり落葉が積み重なり、やがて違和感なく自然に溶け込み見事な「歩く道」に変じてくれるのではなかろうか。
さてシシ垣は木漏れ日の中に相変わらず眠るように身を横たえていた。延々と伸びて行く様は竜骨の如くである。それでもシシ垣上の樹木の成長にところどころ崩落も進みつつある。シシ垣が囲う段々畑もこれまた実に素晴らしい。尾根から海岸に向かって下へ下へとウバメカシの林に消え行っている。
人間が作ったものの中でも”石積み”は文句なしに美しい。人々が城郭に魅せられるのも殆どはその石垣によるところが大きい。鶴見半島に今も併存するシシ垣と段々畑の美しさはまた”滅びの美しさ”でもあろうか。
シシ垣沿いにかつての里道(歩く公道)が伸びている。倒木に遮られ落葉に埋もれゆくこの道をかつてのように歩く事が出来れば、そこに暮らし黙々と石積みをした懐かしい人々に出会えるのだ。シシ垣脇の里道に立つと郷愁はいやまして深まるばかりである。
この里道に並走する”すっかりみすぼらしくなった”鶴見スカイラインの終点は猿戸である。猿戸は鶴見半島のくびれ腰である。そのくびれ腰故か、はたまた半島尾根の平均標高故か、このスカイラインは”日本一低い林道”の称号を得た。
<墓仕舞い> 2024.09.13
旦那寺の上下3段に仕切られた納骨堂はスペースが限られている。ご先祖様全てに入ってもらうのは無理である。何しろこれから入る人間にもスペースを残しておかねばならない。
改葬前の墓所には12体の骨壷が納まっていた。4体は既に改葬を済ませ、4体は土が入っているだけなので処分をお願いした。残る4体は1つに集骨し改葬する事にした。よって納骨堂には都合5体が納まる事になる。今日はその残る4体の焼骨の日である。一時間程で焼骨が終わり集骨する事が出来た。この間、改葬から集骨へと市役所への申請手続きも中々に面倒であった。
さて旦那寺によると納骨堂には標準で9体(骨壺数)、頑張って最大12体分は入るスペースがあるとの事だった。ただ父と妹の骨壷がこの地方の標準サイズに比較して大き過ぎた。入口につかえて入らない。一旦、蓋を外して漸く奥に納める事が出来た。余談だが父は骨太の人で蓋を開けると骨が溢れ出て来た。事実上、この父妹2体でほぼ4体分のスペースを占める事になった。つまり既に6体分(=2x2+2)が埋まった計算だ。集骨分を入れると標準サイズでは残りは2体分(=9-6-1)のスペースとなる。このまま年齢順にいくと母が先に入る。残りは1体分と納骨競争率が跳ね上がってしまった。少なくとも自分を含めてこれから入る人間は骨壷は標準サイズより小さくする事を念頭に置いておかねばならないのだ。
もっとも都会に住む妻がここに入る保証はない。娘は既に嫁している。何だ、それなら自分が最後となり残りのスペースを目一杯使えるではないか。父ほどの骨太ではないが何しろ身長は184cmとデカい。家族に父並みの大きなサイズの骨壷を検討してもらえるかもしれない。
<台風一過> 2024.09.01
番匠川の水位は急速に上昇し、そしてあっというまに引いて行った。昔に比較して山の保水力が落ちているのかもしれない。
その番匠川に取水した多くの集落の用水路には春先から水が満々と流れ始め田地を潤し、また番匠川に還流していく。番匠川沿いの大概の集落には水門が設けられていて、番匠川と還流路との水位が逆転した時にその水門が閉じられる。用水路に水が流れなくなる秋口からなら問題ない。稲が大量の水を欲する今の時期は問題含みである。
今回の台風でこの山間地にしては広大と言える我が集落の目の前の田地は水没した。排水用のこの水門が閉じられ用水路の水が溜まり続けまるで湖水と化した。
この田地の前で番匠川と久留須川が合流する。昔は高い堤防もなかった為、両河川がどこまで増水を抱え切れるか人々はいつも気掛かりで、大型台風が襲うと必ずといっていいほど田地は水没した。高い堤防が築かれたからといって何と水没する事に今も変わりはない。番匠川の水位と水門次第なのである。
水没すると集落の出口は塞がれ孤立する。田地共々道路も水没する。幸いにも集落は山の裾野のやや高台にある為に浸水する事はない。平地の少ない山間地では土地利用は家屋より田地が優先する。ただ裾野近くは山崩れの危険性を合わせ持つ。山と川の環境管理は人々の生活に大きく関わる問題なのである。換言すれば、森林の状態に左右されると言うことである。
山の土壌強度と保水力は切っても切れない関係にある。保水力が落ちるという事は土壌が脆弱になっていることを意味する。それは森林の有り様そのものに起因する。
佐伯地方の森林は今、成長のピーク期にあり彼方此方で伐採が行われている。五十年材を一気に伐採する(皆伐という)。ただ戦後の大造林が大量の収穫材をもたらし伐採能力が追いついていないとも言われる。皆伐した後には造林する必要がある。伐採と造林のバランス良い能力確保を必要とする。伐採能力が追いつかないと森林は大径化し今度は加工設備が伴わない。造林が追いつかないと山肌は風雨に直接晒されて急速に荒れる。伐採も造林もそのまま放置すれば山は更に荒れる。自然林では考えられない人工林の宿命である。行き届いた管理を必要とする。
川端康成に「山の音」という作品がある。老いを自覚した主人公が(まだ62歳なのに)、山の音を死期の告知と恐れるのだが、今は山の音が聞こえる程には山の奥深さは喪われてしまった。人間が手を入れ過ぎ厳かで恐れ多い咆哮する山ではなくなったのだ。
迷惑な存在ではあるが、自然と共生する事の意味を考えさせられた久々の台風であった。
<続 石積みに人目ぼれ> 2024.08.19
“石積みは美しい。石積みの風景に心を奪われている。”、などと言いながらいい加減なもので、実家の裏を通る用水路の石積み(擁壁)が夏草に覆われて見苦しくなっているのを、実は見て見ぬ振りをしていた。何しろ炎暑である。それに我が家の所有地でもない。昔は集落に属するものは集落総出で整備をしたものであるが今は中々難しくなった。
今日は土砂降りとなったものの待ちに待った雨である。実に”干天の慈雨”とはこういうものであろう。先祖達がこの地方の名だたる山の頂上に八大龍王を祀った気持ちが分かるような気がする。江戸期は日照りに悩まされ続けたのだ。
さて個人的に雨の日は草刈りと決めている。暑さを凌げて何時間でも外にいることが出来る。後は体力次第である。ただ、あらかた我が家の草刈りは済ませている。ならばと、裏の石積みに取り付き二時間ほど一心に草刈りをした。草刈り機はほぼ役に立たない。剪定鋏で一心不乱に刈る。それにしても両腕と両肩への負担は尋常ならざるものがあった。
それでもどんなもんだ。実に美しい石積みが現れたではないか。達成感は一入である。大した規模ではないのだが、やはり石積みは美しい。
石積みでも昨今のコンクリート材では草が生える余地はない。美しい石積みの典型である昔ながらの「空石積み」ではどうしても一つ一つの石の隙間に草が根を張る。だから草むす事は避けられない。放置していると見苦しい石積み風景を作る事になる。美しくあるものはそれなりの手間をかける必要があるのだ。
積み石の間に詰め込まれていた小さな石が力をかけると抜け落ちてくる。風雪に締まりが緩み磐石ではなくなっているのだ。茶碗の欠片までもが詰め込まれていた。用水路からの漏水も石積みの強度を落としているに違いない。いずれ全面的な修復を必要とする時期が来る。集落に石積み技術を持っている住人はもはやいない。寿命は石積みの方が遥かに長いにも関わらず、環境にもより適合しているにも関わらず、その時はコンクリート擁壁に取って代わられるのだろう。里山景観を守るのは現実的には容易なことではない。
石積みは美しいなどと言っている限り、やれやれ来年もここに取り付くことになるのだろう。刈り込んだ石積みの美しさに暫く見惚れていた夕餉前の満たされた一時であった。
<まほろばの夏> 2024.08.17
八月に実家に過ごすのは久し振りである。青田の広がる故郷の夏はあらためていいものだと思う。八月は彼岸から先祖が帰ってくる季節でもある。かつて盆は夏の季節感の頂点にあった。里に賑わいが戻り、どの家でも親類縁者が久し振りの交歓を行った。盆が過ぎればある者はまた故郷を後にする。夏も共に去っていく気分がしたものだ。
今は静かな盆である。昔のような賑わいはなく、ギラギラと突き刺してくる炎熱の光はむしろ地上の人々の寂寥感を際立たせているようだ。代わりに夏はいつまでも去る気配がない。
今年は我が家も「墓仕舞い」をする。老母はもはや自力では墓守が出来ない。近い将来の事を考え菩提寺に永代供養墓(納骨堂)をあつらえた。いずれ我が家の墓参も違った風景になる。
それでもこの地は我が「まほろば」なのだ。たおやかな山々、美しい田地、清らかな川、まさに桃源郷ではないか。王城を構えるに相応しい「山河襟帯」の地でもある。残念ながら歴史的にはそれは更に奥地の因尾盆地に譲った。
さいきフットパス「清き水の故郷コース」もこの地を巡っている。ただ、歩いている人をついぞ見かけた事がない。いいものを見る目を養うがいい。
かつて一日中遊んだ近くの清流にはこの時期は連日よそから人々が押し寄せ川遊びを楽しんでいる。何だかふるさとを奪われた気がしてしまうのだ。もうかつてのようにそこに地元の子等が遊ぶ事もないけれど。
季節が変じているのだろうか。夏の終わりに飛ぶものだと思っていたが随分早くから赤とんぼが飛んでいる。蝉の鳴き声が意外や五月蝿くまとわりついて来ない。野良に出てもあの忌まわしい蛇に遭遇しない。水遣りを一日切らしたばかりに余命幾許かの態であった茄子がついに枯れてしまった。「まほろば」も酷暑にはお手上げである。
もっともこの賑わいの夏の日に集落の住人にも滅多に遭遇しなくなった。家を継ぐ者がいないのだ。それはそう遠くない日に訪れる我が「まほろばの終焉」を意味しているのだ。
せめて墓仕舞いはやめるべきではないかと青田を眺めながら自問自答するふるさとの夏である。
<自称、「まほろばの夏」三部作>
帰りたい夏、帰れない夏 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)
<石積みに人目ぼれ> 2024.08.16
今、佐伯地方の「石積み(石垣)の風景」に心を奪われつつある。鶴見半島に埋もれゆく「シシ垣と段々畑」への思いが昂じ過ぎた結果である。
佐伯地方は中山間地の割合が高くそれ故に「傾斜のある生活空間」に無数の石積みが形成されている。昔からそこでは当然の如く、棚田、段々畑、屋敷地などに石積みが行われて来た。特に海岸地方の段々畑は壮観である(今はほとんど樹木に埋もれてしまった)。
今や世間では石積みは「風土的な価値ある景観」を提供してくれるものとして認知されている。確かに自然や生活空間の中に実に深く馴染みそして何より美しい。
その一方で地元に継承されて来た石積み技術は途絶えつつある。石積みはコンクリートにとって変わられ、その現場でもある耕作放棄地が増えている事も関係している。ただ、コンクリートの石積みは美しくない。
石積みは民俗文化的な価値を持ち景観保全の観点から政府もこれらを保護する方向にある。これに伴い石積み景観の修復や保全に力を入れている自治体も多い。特に観光資源として脚光を浴びているのがその動機の一つである。
また、留意すべきは石積みは環境負荷が低いことや災害に対しても柔軟に対応出来る事である。加え大きな労力や資金をかけずに維持が可能である。だから日本の各地で年々その技術の継承の機運が高まっている。
佐伯地方はどうであろう。個人的にこれまで佐伯地方の隅々まで探訪して来たが残念ながら石積み景観の発掘の視点を欠いていた。各地には確かに印象的な石積みがあった事を今思い出している。きっと未だ見ぬ素晴らしい掘り出し物があるはずである。
まさにその地勢が故に石積みはこの地方に不可欠の生活文化だったはずである。その新たな発掘や復元が出来ないものだろうか。
この分野で先鞭をつけた「一般社団法人石積み学校」にその修復や復元に関して相談してみた。要請があれば是非とも協力させて欲しいとの心強い言葉を得た。特にシシ垣の規模には驚きを隠せない様子であった。
灯台下暗し、そう言えば我が集落には見るべき石積みがあったろうか。この集落の山際の高所に用水路が通じている。その用水路の構造物がまさに石積みなのである。昔から側にある当たり前の風景だから石積みを意識する事がなかったのである。現金なもので他の集落のあちこちに美しい石積みが残っていることを次々に思い出した。
つまり案外多くの人が地元にある見事な石積みを見過ごしているのではなかろうか。これは「観光資源の原石」でもある。地域再生の手段の一つとして取り上げてみても面白そうである。
<参考資料>
南海部に天空路を拓く会 - 資料室 (minamiamabe.com) 「石積み」、「石積み学校」
<白い谷、白い川> 2024.08.05
世界や日本の著名な川を見て来たが、この川ほど素朴で美しい川を知らない。
心に流れる川 - 海の向こうの風景 (hatenablog.jp)
それでも昔はもっと美しかった。水量も多く、今と違って葦が繁茂する事もなく川原はあちこちで眩しく光っていた。地下茎が堤防の保護に適している竹類が、かつては川沿いに密生していてその美しさに彩りを添えていた。この川は何といっても夏に特段美しくなる。強い光と鮮烈な水が豊かな色彩を放ち印象的な風景を描き出す。
夏は好きな山に行けない。この地方の山の標高は高くても精々600m程度だから夏は薮が勢力を張り危険生物も活動的になる。山は物騒になる。夏山の清々しく明るいイメージはこの地方の山にはないのだ。それでも夏の間にたっぷりとその土壌に保水して瑞々しい水を供給し続け、この美しい川を作る役目を担う。
帰省後長患いをしたせいか、体がうずうずと自然を求め始めているのが分かる。だからせめてもと、朝方この川の生気を吸いに行った。
この地方ではここだけに東西に石灰岩脈が貫いている。そこを同じ方向に沿ってこの川が流れる。中流あたりで石灰岩層が地表に露出して来る。太古から急流がこの岩脈を穿ち続けて来た結果、流れに沿って奇岩景勝を造形した。川沿いの山腹には地下水脈に穿たれた洞穴も数多く残る。洞穴は考古学的にも歴史民俗学的にも世間に多くの話題を提供して来た。この川が造形した渓谷美は形容のしようがない。自ら訪れて堪能するしかない。
ただ、夏が終わればこの川は輝きを失う。寂しく静かに流れて行くだけだ。その代わり今度は山が呼びかけて来る。途切れる事なく延々と続く尾根が待っている。夏に川に占有されていた彩りは秋口から山に転写されて行く。山には多様な樹木が発するフィトンチッドが溢れ心身の癒しと安らぎが待っている。清々しい山が戻って来る。だから夏が終われば待ちに待った山に抱かれに行く。
嗚呼、この素晴らしい山河と共にある事の幸福をそこにいます神々に感謝して止まない。
<夏草刈りの意味するところ> 2024.07.26
梅雨も明け夏本番にも関わらず今に至るまで日がな床に伏せったままである。畑の草刈りにも取り掛かれない。
帰省後発症した風邪が原因か咳が止まらない。微熱を感じつつ二週間が経過した。流石にコロナ感染と観念し、二度コロナ検査するもいずれも陰性で問題がない。投薬治療を継続するも咳は一向に治らない。回復の兆しがないのだ。
そのうち右肺に痛みが出るようになった。咳による筋肉痛かとも思うものの肺の炎症かもしれず流石に気分が落ち込む。咳は一日中止まる事が無く体力の損耗が甚だしい。ここまで長引く罹病は始めてである。
肺炎を覚悟して三度目の医者に罹った。ようやく血液検査、レントゲン検査、CT検査の実施と相なった。特段の異常はないが体の何処かで炎症を起こしている事は判明した。抗生剤で様子見となった。最初から抗生剤を処方してくれていればここまで長引く事は無かったのではないかとも思わぬでもない。
一方で最初の七十歳の壁が立ちはだかったかとも思った。免疫力の低下が進行中だという事なのだろう。
体力の回復が遅々として進まない。炎暑が続く。繁茂する畑の草刈りに取りかかれない。
果たして畑の草を刈る意味はあるのか。草を刈るという事は土壌に本来あった有機物を奪う事なのではないか。草を刈った畑に失った有機物という養分を補填する為に無機質の化学肥料を撒き野菜を作る。
それは更に養分生成の媒介役である土壌生物や土壌細菌を根絶やしにする事である。本来的に土壌は多様性に富み豊かなものである。現代農業は土壌の有機に無機を入れ替える事で生産量を上げている。一見、豊かに見える土壌はその実は既に貧困なのである。
土壌は全ての生命の胎盤である。今回の長期化する罹病もその辺りにあるような気がする。無機の土壌から育った耐性の弱い過保護な食料(植物、それを食む動物)を摂取し続けて来た結果、身体の耐性も脆弱化していたのである。それが高齢化と共に発現したのである。
抗生剤という無機質な化学的に合成された薬無くしてはもはや病に打ち勝つ手段を持たない人間の心許なさである。
だから草刈りはしない方がいいのだ。そのまま放置する事が豊かな土壌を涵養することに繋がるのだ。そこから本来的な耐性の強い土壌有機物を摂取すればそれがもっとも効果的な薬になるのだ。
我ながら中々いい理屈である。この夏はこのスタンスで臨むことにしよう。だから草刈りはしない。
<石積み学校> 2024.07.12
最近、「一般社団法人 石積み学校」の関係者と京都(山科)で面談した。崩壊が進む鶴見半島のシシ垣やウバメカシの森に埋もれゆくかつて半島尾根まで這い登っていた広大な段々畑の修復や復元への可能性について考えてみたいと思ったからである。
間違いなくここのシシ垣はその規模(総距離約10km)や保存状態において日本トップクラスのものである。整備が行き届いていれば文化庁による「文化的景観」に選ばれていてもおかしくない。同じ生活文化を持つ対岸の宇和島地方のシシ垣と段々畑はこれに選ばれているのである。観光名所としても名高い。
佐伯地方は殆どが山地である為、どうしても多くの家屋や田畑は傾斜地を利用する事になる。その土止め用に石垣が組まれて来た。その石積み技術は各集落で継承されているのだろうかという疑問が生じた。今や石積みはコンクリートに取って代わられ技術の活用機会が減じた為である。
石垣は環境に優しく防災面でも耐性が高い。加え自然の風景にも馴染んで景観的にも素晴らしい。鶴見半島の段々畑とこれを囲むシシ垣を修復再現出来たら素晴らしい文化的景観が現れるに違いない。民俗文化遺構として価値が高いにも関わらず現実的には放置されたまま荒廃が進んでいる。佐伯市民の文化意識が問われているということでもある。
南海部に天空路を拓く会 - シシ垣再生 (minamiamabe.com)
さて石積み学校について紹介してみよう。現東京工業大学教授の真田純子氏が2013年に設立し、「石積みの風景と、それを支える技術の継承を目的として活動」して来ている。具体的には、「崩れかけた石積みを実際に修復しながら積み方を学ぶワークショップを開催したり、石積みの価値と技術を伝えるための講演会や授業を受け持ったり」と様々な活動を行っている。
鶴見半島のシシ垣の見事さに驚いていた。石積みはそんなに難しい技術ではないので二、三日あれば習得出来るとの事である。また、各地に石積みの現場が少ないので鶴見半島のシシ垣や段々畑は注目される可能性ありとの事であった。最近では福岡市「能古島のシシ垣」の修復支援を地元の民間団体の要請で行っている。
面白い事に石積み作業の召集をかけると全国各地から参加料を払ってでも自費で参加するボランティアの方々が多いそうである。いわゆる石積みマニアが存在するのである。
そこで考えた。鶴見半島のシシ垣と段々畑を石積み学校のワークショップの現場に提供してはどうだろう。佐伯市にとってもシシ垣の修復や段々畑の復元にはずみがつく事は間違いない。現在、「令和市民大学」の仲間と「佐伯地方を歩く旅」の実現に向けて協議中にあるが、この鶴見半島の素晴らしいシシ垣をその優先整備ルートとして選んでいる。ルート整備の一環としてボランティアを募集するアイデアは十分実現可能だとの事であった。
石積み技術の地元継承と文化的景観の復元に向けて関係者の賛同と支援を得たいものである。
<帰省> 2024.07.13
琵琶湖のほとり、大津堅田で旧友と懇親した深夜、JR湖西線を利用する機会を得た。帰宅客が混雑するでもなく駅ホームのあちらこちらに電車待ちをしていた。ありふれた日常光景なのであるがその時何だか違和感を覚えたのである。
想像してみるがいい。薄暗いホームに立っている誰もが俯いて終始スマホを見ている光景を。全ての者が声を発するでもなく身動きさえせず一様に首を垂れていたのだ。血の通った人間達がそこにいるのにまるで人工物になったような無機質感が溢れていた。
今やそれは異常な光景ではなく当たり前の光景なのだろうがそれぞれの孤独感、孤立感を思わざるを得ない。その没頭する姿を思えば多分そこだけには熱いエネルギーが放たれているのだろう。だがそれは総和する事の出来ない内向きのエネルギーなのだ。ざわめきとは人々の放つ総和された熱いエネルギーである。ネット社会は日常からそのようなエネルギーを奪ってしまったようだ。
それから二日後の早朝、無事、帰省した。この心に沁み入る風景は何なのだ。峰々には山霧が立ち込めその裾には濃緑と青田が広がっていた。清冽な川の水の何という清々しさよ。これらは皆この時期に総和された自然エネルギーの発散なのである。生命力に溢れるそのエネルギーを一身に浴びる事が出来る幸いにあらためて感謝するしかない。
さて、予想通り実家の裏の畑は一面夏草に覆い尽くされていた。こちらの自然エネルギーの旺盛さには辟易するしかない。その光景はこれから何度となく繰り返されるであろう我が身の草刈攻防戦の始まりを告げていた。それでも覆い被さって来るようなこの自然と相まみえる事の出来る環境は是とするのみ。すっかり落ちてしまった体力の強化と緩んだ体型の絞り込みの相手として不足のあるはずがない。お互いそのエネルギーは外に向けてこそ。
<愛しき日々> 2024.05.11
横浜に帰る日が目前に迫った。およそ半年間、ふるさとに滞在した。自然よし、歴史民俗よし、何より人よし。あっという間の月日だ。
母がまた一人暮らしに戻ることを思うと懊悩煩悶がなくはない。その暮らしを長く見過ぎてしまった。年々歳を重ね生きる機能は確実に劣化していく。その速度が何だか早くなったように感じられる。僅か半年間に過ぎないが己の精神に覆い被さって来る何ものかも更に重くなった。
一方で山を歩き里を歩き海を歩いた。大地と大気が発散するエネルギーに思考と体の分子構造をすっかり組み替えられたかのような実感がある。都会にこのエネルギーはすこぶる弱い。本来的に備わっている自然に相対する感覚器官が無機質な日常に慣らされ劣化してしまう。都会に劣化するものとふるさとに劣化するものとが共に過ごした日々が間もなく終わる。
最近、蜘蛛が母屋や納屋の周囲に雑然と置かれた物や畑への草木の程よい空間によく巣を張る。あらゆる新たな生命の蠢きに呼応するかのようである。昨日、畑仕事で使用した長靴を納屋の壁際に置いていると今日はもうその空間に巣を張っている。蜘蛛は糸を張って巣を作るのに一時間もあれば十分らしい。だから蜘蛛の巣を取り除いてもまたそこに張る。餌となる虫の通り道と分かっているから頑なにその位置を離れない。
父の残したその長靴には随分と世話になった。今日は母に怒鳴られながら畑に茄子の苗を植えた。いつもは家の中で、俺の周りをうろつくな、転ばれでもしたら大迷惑だ。母を怒鳴り散らしている。大地の上では立場が逆転する。畑作業の常識は都会もんになってしまった息子には通じない。初めてなんじゃから仕方あるまい、丁寧に教えんかい、怒鳴り返す。
使い終えた長靴は同じ場所に戻しておいてやろう。明日になればまた蜘蛛がそこに巣を張るに違いない。
“愛しき日々のはかなさ、愛しき日々のほろ苦さ、消え残る夢、もう少し時が緩やかであったなら”、と本当にそう思う。
ふるさとに本当に世話になった。
<八十八夜> 2024.05.02
夕刻を過ぎても排気ガスの匂いが鼻腔に残って消えない。叔父の畑の茶摘みに駆り出された。朝から午後4時頃まで続いたろうか、二百キロほどの新茶を摘み終えて叔父は時間内に何とか製茶工場に持ち込めた。昨年見学した本匠因尾のあの製茶工場である。茶葉は時間が経つと発酵し高熱を発する。その前に”殺青”しなければ台無しになってしまう時間を争う作物なのだ。
<殺青>生活文化の青殺 Y3-03 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)
大した手伝いをした訳でもない。バキュームタイプの茶摘み機を操作する後ろから茶葉が溜まる袋を支えながらサポートするだけである。ただ、五月蝿いのは仕方ないとしてもその茶摘み機の排気ガスがまともに顔面を襲い続けて来る。顔をどちらにそむけても匂いは纏わりついて離れない。何度、息を殺したか知れない。その残臭である。
文句を言う訳にもいかない。川向こうの山裾からも茶摘み機の音が響いて来る。この時期、山には同じ思いをして頑張っている人がたくさんいる。昔は”手摘み”だったことを思うと格段の作業性の良さである。だが”茶摘み"という表現は最早相応しくない。これは”茶刈り”である。刈り跡を見るとまるで茶葉の剪定である。何だか痛々しい。表面の新茶を刈り取っていくが表面は一様ではない為、余分なものも茶葉と共に刈り取られていく。
叔父は隣の畑の茶葉と色が違うだろうと自慢する。確かに茶葉の色は濃くて艶々と光りそれでいて柔らかさが手に取るように分かる。一年を通じての丹精な地味の管理がものを言う。高齢化が進んで私の集落では茶摘みをやる世帯は途絶えた。茶畑は藪となって自然に帰しつつある。茶の木を伐採しても強靭な根を張っている茶の木はやがて芽を出し成長を続ける。意外と厄介な樹木でもある。里にはそれを畑地に転換する労力もない。
茶摘み機無くして今の里山に茶摘みは不可能である。昔のように一家総出の人手は揃わない。これだけ手間をかけて育ててもコストには見合わない。”茶摘みの歌”の明るい平和感は最早今の里山にはないのだ。その光景は思い出の中の幻想と消えてしまった。
この山の”炒り茶”は本当に美味しい。預けた製茶工場からは既に市場に新茶が出荷されているらしい。だが茶摘みも製茶も里山に長く続く保証はない。
偶々この日は八十八夜に当たっていた。都会の妻がそうメールして来て知った。
一面新緑に覆われ爽やかな姿に転じた修験の山、石槌山と聖岳が谷底に響き渡る茶摘み機の唸り声に小五月蝿そうにその”茶刈り”を見つめていた。
<山師になった日> 2024.04.25
見事な”山藤”だと思ったら"桐の花”だという。久しぶりの快晴に仲間に誘われて宇目の奥深い山中を走り回った。「天神原山」一帯に眠る「木浦鉱山の遺構群」を探訪する為である。道の駅から真弓(鷹鳥屋神社)経由、一旦、藤河内集落(平家伝承)に降り、そこから天神原山(尾越坑跡)まで登る。大切峠を越えて「横岳」近傍の山中(掘削坑跡)に分け入った後、木浦に降りた。今度はそこから杉ケ越方面に「囲山」(鉱山宿舎跡)まで登って行く。桐の花はこの途上で目にしたものであるが山藤も花盛りであった。
鉱山関連遺構が広大な山中の至る所にこれほど多く残っていようとは驚きである。「産業遺産」として十分に見応えのある遺構群ではなかろうか。特に「尾越坑の石垣遺構」は圧巻である。横岳近傍の山中を歩き回っていると時代を違えた掘削坑跡が入れ替わり立ち替わり現れる。手掘り(立坑)、機械掘り(横坑)の違いが理解出来る。西南戦争の堡塁跡と見紛うような掘削跡なら山肌の至る所に吹出物のように剥き出しになっている。
天神原山頂上付近は新緑が素晴らしい。ここには遊歩道とかつての鉱山道が巡っている。お椀を伏せたような山だから地勢はたおやかに波打っていて新緑が山肌を覆い尽くしていた。秋はこれが紅葉に変わる。遊歩道を進み山を西側に回り込んでみると今や誰も訪れることもないだろう素晴らしい鉱山道が美しい森の中に眠っていた。
石灰岩脈の露頭からなる白骨のような痩せ尾根で昼食を取っていると既に初夏かと勘違いしそうなほどに「春蝉」が鳴いていた。同じ様に多くの掘削坑が眠っているだろう谷向こうの山々の新緑が鮮やかで、その稜線の更に向こうに傾山が立ち塞がっていた。ただ眺めているだけで実に至福の時間が流れて行く。
木浦集落に一旦降りて杉ケ越方面に囲山中腹まで登っていくと外国人技師も住んだ宿舎跡地が山城の曲輪のような場所に残っていた。まるで「ベートーヴェンの墓」と見紛うような暖炉の煙突跡が薄暗い林間に二基立っている。この異空間に夢中になっている隙に乳酸の溜まったふくらはぎからたっぷりとヒルに血を吸われてしまった。
麓ではなく山頂付近に「女郎墓」があることの不思議、深い山中に分け入って採鉱させられた家族労働の過酷、山の自然と遺構が素晴らしいだけに返ってそこに生きた人々の蠢きが心を衝く。鉱毒問題も痛ましい事実として伝わっている。
かつて学童達は藤河内から木浦分校までこの天神原山を越えて通学した。人間の底知れない度量を思わざるを得ない。「墨付け祭り」や「唄げんか」は木浦鉱山が産み出したもう一つの産物でもある。
何処を走っていても宇目は今新緑がとても美しい。
<神様と過ごした日> 2024.04.21
鎮守の森には少年時代の懐かしい思い出がたっぷり詰まっている。参詣する度にその時代にタイムスリップする。地元の「白山神社」の春の祈年祭にその時以来随分と久し振りに参加した。当時とはその賑わいは較べものにならない。氏子が激減した。「杖踊り」も絶え、「神楽」ももはや招聘する状況にない。佐伯十二社に列する由緒ある神社であるが、佐伯氏や毛利氏から尊崇されて来た歴史を知る氏子は今や皆無かもしれない。
急傾斜の長い参道を登って来る氏子は殆どいない。皆、新設された裏道から車で登って来る。神に近寄る心の準備もあったものではないが、足腰の弱った氏子には最早登れないキツさなのである。参道を登り切って現れる社殿前の庭は、一面、瑞々しい苔に覆われて相変わらず今も実に美しい。石灯籠はいつもの見事な姿勢のままだ。社殿の絵馬は年々その彩色を失っては行くが未だ未だ風情を残している。清掃の際に最奥の神殿を覗く事が出来た。御神体の脇に棟札の入った大きな木箱が立て掛けられていた。開けて中を見たかったが流石に儀式直前にそこまでの図々しさは持ち合わせていない。
雨が今にも降って来そうな朝である。宮司により祈年祭が始まった。あらためて神殿の扉が開けられ咆哮に似た大音声で神を呼ぶ。神饌を捧げ祝詞の奏上が済むと氏子達が静々と玉串を奉り五穀豊穣を祈る。笛と太鼓の音が高揚感を煽る。この音こそが神の好きな音なのだが太鼓の音が今ひとつなのだ。何と破れ太鼓であった。それに薄暗い社殿を照らす蛍光灯が頻繁に点滅を繰り返す為、つい気が散じてしまう。氏子、反省すべし。
床にムカデが這って来たようで何やら後ろで小騒動している。神前で殺生とは如何なものかと思う間もなく儀式は恙無く終わった。鬼門除けも集落の四隅(本来、北東のみのはずだが)に立てられて今年も万全だ。
雨が降って来た。森を降り近くの番匠河畔で「水神祭」も執り行われた。この地方の名もなき山々の頂上には八大龍王神を祀る石祠が多い。水は五穀豊穣の最大にして最高の必須アイテムなのだ。番匠川も昔に比べ水量が減った。その癖、大雨ではかつてない大増水になる。水神様にもどうにもならない厄介な時代になった。生暖かい湿気を含んだ草むらから、捧げたお神酒のむっとする匂いが立ち込めて来て、こちらも滞りなく式を終えた。
夜半、友人から神楽の動画が届いた。同じ日、かつての天領だった地の「愛宕神社」でも祈年祭が行われていたのだ。氏子の数がものを言う。こちらでは神楽と杖踊りが賑やかに神前に捧げられていた。なんと湯立神楽だ。直接見たかったなあ。いやいやここは浮気をせずに我が産土神と過ごす事こそが氏子の心構えというものだ。
神様と共にあった一日が神妙に終わった。秋に五穀豊穣を祝える事を願うのみである。
<お大師様のお導き> 2024.04.15
雨曇りの中、畑野浦の「自伐の森」を再訪した。「自伐型林業推進協会」の著名講師と関係者が来訪し施行中の「作業道」の延伸現場を見学する為である。完成すれば津波避難路としても機能する事になる。
話は変わるが政府の施策である「ニューツーリズム」を理解する間もなく、最近、「ウェルネスツーリズム」という言葉を知った。前者は「テーマ性が強い体験型の旅」、後者は「心の癒し、魂の癒しを求める旅」と言う事らしい。後者は前者の範疇に入ってくるのかもしれない。
佐伯地方の山野河海を歩き回って来た。こちらは「歩く旅」といえようか。山歩きをトレッキングというが登山はその範疇には入らない。ハイキングは本来の意味は歩き続ける事であり何千km歩いてもハイキングという。トレイルは「未舗装の歩くための道」の事とある。
さて、畑野浦のその自伐の森に繋がる「お大師様道」はどう表現出来るだろう。何と上記の全てが当てはまるのだ。山裾に四国八十八ケ所霊場を模した石像が立ち並ぶ未舗装の山道が、福泉寺から伸びていて同じ山の自伐の森の作業道に繋がっている。
この道はいずれ尾根まで這い上がって行く可能性を残している上、更には同じ山裾に連なる神武天皇由来の数々の伝承地までもう一息の距離まで伸びて来た。それなら港を挟んで対岸にある同じ神武由来の江武戸神社までも繋がってくるようなものだし、その山裾から旧道のあった峠道を伝って石鎚信仰の修験の山、石鎚山に至る事も可能である。トレイルとはそもそも巡礼道のことでもある。そしてその高見からの海岸絶景に息を呑む事になるのだ。これを癒しを求める道と言わずして何と言おう。
さて延伸作業を見学中に迂闊にも最近、顎関節症を患っている事を漏らしてしまった。目の前にいる自伐の森の持ち主は歯科医なのだ。それは自分の専門だとばかり山を降りて診療室に連れて行かれた。薄紙一枚にも満たぬ僅かな隙間の噛み合わせを調整するだけで何と体幹の左右のアンバランスまで改善してしまったのだ。恐るべし歯の機能、恐るべし山の主。
自伐型林業では「山が本来的にありたい姿」を想像して間伐を繰り返す。結果的に治山、治水に繋がる。歯科治療も同じようなものではないか。「体が本来的にありたい姿」を想像して施術する。いずれも理にかなっているのだ。昨今の医療実態への問題提起のような気がする。
お大師様道を歩き続ければ更に何かいい事が起きる気がして来た。
<春が来た> 2024.03.27
朝から五月蝿いくらいに鶯が囀っている。初音は堅田の龍王山で聴いた。「山の民が失った山を海の民が保全している」と先に書いた。訂正しておかねばならない。海は山に比べて日照時間が長い。だから山桜が早く来たのだ。龍王山の鶯も同じだ。
今、山里は日一日と山桜が花開き始めた。街の知人の指摘の通り”本匠の空は狭い”から日照時間が少ない分だけ遅々として咲く。鶯の囀りにも誘われて山桜の側に行きたくなって長い間サボっていたwalkingに出た。山桜を愛でながら歩いていると、知人が小川の「千本桜」もここ数日で満開だろうと告げてくれたのをふと思い出した。そういえばこの時期に帰省したことがなかった。もうそんな好機はないかもしれない。walkingを切り上げて、炬燵でうたた寝中の老母を叩き起こし、一緒に千本桜見物に出掛けた。
七、八分咲であろうか。老母を車に残し桜の山に登った。かつての平家の落人集落が花に囲まれてまるで日向ぼっこをしているようだった。小川川の谷合の向こうに椿山の威容と冠岳に繋がる稜線上の山々が見えた。また登りたい。突如、猟銃の音が向かいの山から断続的に響いて来た。興趣を奪われてしまったが仕方がない。山の生活を守らなければならない。
山を降り「旧小川分校」に立ち寄ると、校舎脇の桜が満開を迎えようとしていた。遠い日にその下でざわめいただろう幼友達が何だか懐かしく思い出され胸が詰まった。帰りがけに小半のミツマタ群生地まで足を伸ばしたが花は概ね終わりを告げていた。昼時になったので近くの「水車茶屋」で蕎麦を食った。入口に何本かのミツマタが植っていて満開の花を保っていてくれた。いい子達だ。茶屋の壁には「漫画家富永一朗」の絵(チンコロ姐ちゃん?)が掛かっていて、彼と親しくしていた伯父が寄付したものだと老母が蕎麦を啜りながら告げた。
帰宅すると友人が番匠川の風物詩「シロウオ漁」の貴重な獲物をもらったと動画を送ってきた。鍋の中でシロウオが勢いよく動き回っている。踊り食いは無理だと情け無い事を言う。「満を持して飲み込め。滅多に体験出来る事ではない。ふるさとの風物詩の語り部となる貴重な機会ではないか。我々はその継承者なのだから。」
里には菜の花が勢いづいて来た。数日来の雨で水嵩の増した未だ冷たそうな川には水鳥達がはしゃいでいた。
山里に春が来た。
<海に沈む山> 2024.03.21
明石秋室がその眺望を絶賛した「旧入津坂峠」を越えると山の景色が変わった。ここまでの道すがら殆ど目にする事のなかった「山桜」が山肌にまるで淡雪が降ったように咲いている。山桜と言う言葉にもそこら辺の定番の桜と違って凛とした清々しいイメージがあって見るものの心を動かす。満開ではないが実に美しい。
今日は地元仲間とその海に面した山の尾根を歩く事になっているが、この光景にまずは胸が高鳴った。人工林の多い山間地にはない自然に近い山なのだろう。山桜に限らず多種の樹木が息を潜めているということでもある。山の民が失った山を海の民は保全しているのだ。
佐伯地方の海岸は「沈降海岸」が故にどの半島も岬もかつての山の尾根である。山登りは海水面から始めるようなものだから標高はそのまま直接膝に効いてくる。しかも沈降し波に洗われた山だからいきなり急登である。
今日歩く殆ど未踏の海岸尾根を入津湾に住む仲間達は「うしおの道」と仮称している。既存の「元越天空ロード(元越山、色利山、石槌山)」や「峯の地蔵道(石草峯)」に繋ぐ新たな「歩く道」の可能性を探る事が本日の目的である。
かつてこの尾根には「畑野浦」と各浦を繋ぐ生活道としての「尾浦越(尾浦)」と「尾浦坂峠越(色利浦、峠には御郡廻りの仮屋があった)」が通っていた。その現状を知る楽しみもある。
尾根の最高地点は397mで辿り着くと「しげじ山」と立木に看板がくくりつけてあった。地元仲間も父祖に聞いていたのか「あのしげじ山かあ。」と感慨深げである。どの地元にも見上げるそれぞれの峰には地元民が名付けた名前があるはずだが殆ど地図に載ることはない。畑野浦を囲う500m級の稜線の最高地点は590mであるが名前がない。同じ稜線にある「石草峯」は580mとそれより低い。
山を利用しなくなり、山を歩かなくなり、かつて存在したであろう山名も峠道同様に山中に埋もれていく。裏返せば、しげじ山での彼らの言葉は実はその嘆息なのだ。
山桜をはじめ多種の樹木が行く手に立ち現れ、幾つか岩場もあって起伏にも富む面白い尾根であるが、一つだけ強烈な印象が頭を離れない。殆どの尾根が猪に掘り起こされていてまるで畑のようなのだ。これまでの尾根では見る事がなかった光景で、地味の豊かさ故なのか貧しさ故なのか、その生態との関係を未だ測りかねている。
「尾浦越」は尾浦に降っていく道らしきものがあった。「尾浦坂峠越」は尾根を這うようにその痕跡をしっかりと残していた。尾浦越の峠で仲間の手になる「握り飯」で午餐、添えられた地元産の干物が飛び切り美味い。一方、尾浦坂峠越を歩いていると人々の昔の生活を嫌でも想像することになる。現在の我々には辛苦の道であるが、海の民にとってはこれが当たり前の道だったのだから。歩かないとそれも実感することが出来ない。
更に這い上るように進むと遂に「元越天空ルート」に出た。拓かれた道はやはり有り難い。修験の山、「石鎚山(486m)」に下って行く。ようやく視界が開け太平洋と入津湾の息を呑む絶景が現れた。湾の彼岸も此岸もあの山桜が見事に彩を添えていた。
地元仲間も初めて見る光景だと感激の体である。そんな事では地元の素晴らしさを自慢しようがないではないか。それこそが、それぞれの地域に一様に当てはまる陥穽なのである。いつもある当たり前の風景だから見えない。
そんな事ではこの素晴らしい山々は本当に海に沈んでしまうのだ。
<Oh my goodness !> 2024.03.13
知人の誘いで「本匠郷土資料館(旧因尾村役場)」を一年振りに訪れた。変わった事と言えば入り口脇に古い建物とは未だ馴染みきれていない目新しい案内板が、古色蒼然とした赤い郵便ポストと対照的に立っていたことだ。「本匠村郷土資料館」は「佐伯市本匠郷土資料館」へと名前だけは刷新されていた。
中に入ると全く一年前と同じ時間が流れていたが、ここでも顕著な変化を一つ見つけた。二階入り口の壁に立て掛けられている”翠風学人”書なる「本匠西中学校歌」の額が小動物(?)に無惨にも齧られていた。紙を食い物と間違えたのだろう。同じ村内の東中学校(廃校)で同じ時間を過ごした西中学校(廃校)の同窓生の面々を想い、何だか切なくなってしまった。校歌にも東地区(旧中野村)と違う西地区(旧因尾村)の気風が窺い知れる。高い文化の香りがする文だけに尚更傷ましい。Oh my goodness !
何処から侵入したのかと調べて見ると一階の角の壁が崩れ落ちてそっくり外部に通じていた。一年前にはなかった気がするが記憶に定かではない。外に出て建物の周囲を調べてみた。幸いにも壊れているのはその一角だけのようであるが、少なくとも応急措置をしておくべきであろう。展示物に加え肝心の歴史的建築物の劣化が更に進んでしまう。この建物は今年で”おん年百歳”、健気に立ち続けてはいるものの僅か一年でこの有り様だ。小動物より風雪の方が怖い。Oh my goodness !
建物そのものに加え、佐伯地方でこれだけの昔の生活を伝える民具が揃っているのはおそらくここだけであろう。整然と置かれてはいるが手入れをされた形跡はない。一品一品が”主役級”なのであるからそれぞれ”独立展示”させればいい。一品一品を眺めていると実に味がある。それぞれの前に暫し立ち止まり、父祖達の生活に思いを馳せる豊かな時間を過ごすことが出来るだろう。
建物といい展示物といいその現況には総じて忸怩たる想いである。知人曰く、県下には同様の歴史的建造物が国指定文化財として手厚く保護されているものもあると(何処かは失念した)。この建物はそれにも劣らぬ上等の建築物という。今や古民家を改築して地域再生に活用する時代である。この建物とて十分以上にその資格を備えている。
見学を終え、幸いにもこの管理責任者である公民館長に面談する事が出来た。展示物の目録と、特に展示古文書についてはその記述内容を確認したかったが、残念ながら分からず仕舞いであった。ただ、行政としてこの資料館の活用策について検討する事に昨年度に決定済みとの情報を得た事は収穫であった。今後、見守っていきたいものである。
郷土資料館に保管(保存とは言い辛い)されていた古文書の導きかは分からぬが、幸運にも館長より「本匠近世古文書研究会」の存在を教えてもらい、早速、参加の労をとって頂いた。因みに館長は亡父が西中浦中学校教頭時代に同僚だったよし。“Oh my goodness !”
1️⃣「百年の孤独」2023.05.02(一年前の投稿記事)南海部に天空路を拓く会 - bungo2 (minamiamabe.com)
2️⃣資料No.28(我ながらいいことを書いている)南海部に天空路を拓く会 - 資料室 (minamiamabe.com)
<お為半蔵と国木田独歩> 2024.03.13
龍王山(316m)と煙草山(260m)に登った。龍王山はその名の如く、雨をもたらす「八大龍王」を山頂に祀り雨乞を行った事に由来する。「屋形島」の龍王山も同様である。山名にしてはいないが龍王様を山頂に祀っている山は多い。それだけ人々は旱魃を恐れていたのである。
堅田地方には「お為半蔵」の悲恋物語がある。その心中口説によると、両人は龍王様の初ご縁日に一の鳥居で出会っている。当時は「龍王神社(柏江の速川神社に合祀)」は龍王山上に祭祀されていた。お為が山から降りてきて半蔵がこれから登る時に出会ったのである。お為のような娘であったかもしれないかつての乙女の集団に頂上で出会った。失礼ながら半蔵のように心動かされる事もなく、ただ記念写真の撮影を頼まれたに過ぎない。ただ、この山中に「鶯の初音」を聴くことが出来たのは幸いであった。
よく整備された登山道で山頂からの光景も申し分ない。ただ往復に一時間程で何か物足りない。ついでに国木田独歩が「欺かざるの記」に表現した近くの「煙草山」に登ろうと思った。龍王山より随分低くさして時間もとるまい。
「本日午前、収二と共に郊外に出て金比羅山に登る。この山は佐伯町の南にありて兀立(こつりつ)する山なり。眺望佳なり」。山の形が煙草の葉に似ているのではなく、山影が鮮やかに水に映じて煙草の葉に見えるのである、とも書いている。煙草山の由来である。
登山口は堅田側(上城)の「新熊野神社(旧寺田権現、1472年大神惟光の子女が勧請)」脇にある。何故ここなのかとの思いはあったが登山者情報ではそうなっている。いきなり鎖場から始まる。そこから急登でしかも道がさっぱり分からない。最初の尾根に出るまでに体力の多くを消耗してしまった。未だ一割も登っていない。その後も次々に急登の尾根が続く。
中腹の岩塊の上に石祠があった。新熊野神社の奥の院なのだろうか。頂上尾根に出てやっと快適な歩きになった。往復二時間と龍王山の倍を要した。登山道は地元民あってこそとの思いを強くした。
残念ながら山頂では独歩が「眺望佳なり」と書いた光景は木々に邪魔されて今は見る事が出来ない。背伸びをすると遠く小さく彦岳だけは見えた。振り返るとわずかに開けた樹間から先ほど登ってきた龍王山とその向こうに石草峯はしっかり見えた。
へたり込んで握り飯を頬張っているとふと独歩はこの登山道を登ってはいないとの確信めいたものが湧いてきた。独歩の視点は山の北側にあたる"佐伯町"にある。そこからの光景を愛でている。そちら側から登るのが自然であろう。わざわざ南側に回ってこのきつい尾根を登る状況を想像し難い。
あらためて諸資料に当たると「久部山(煙草山)」の一部、「東禅寺(上久部、1822年開基)」背後の山を「高住山」といい、その山腹に「金比羅社」がある、と書かれている。頂上には「金比羅神社」の奥の院があるらしいがそんなものはなかった。東禅寺は背後の山、高住山を拓いて四国八十八カ所の霊場を設けた、ともある。登山道は東禅寺の裏手にあるのではないか。頂上も違う山なのではないかと疑問が残った。ただ、山頂には“煙草山(高住山)”の標識が立木にくくりつけてあった。”久部山と高住山は別の山”で煙草山は久部山の俗称で独歩のいう金比羅山も何だか怪しい。金比羅社のある高住山のことではないか。だとすると独歩は煙草山には登っていない。本来の登山道から登ってみる以外に検証のしようがない。
低い山の割には体力に加え知力を消耗させる山でもあった。
<生簀に棲む男> 2024.03.03
「青嵐、秋月、落雁、夕照、晩鐘、夜雨、帰帆、暮雪」は中国湖南省の山水画の画題である。「瀟湘八景」という。かつて御手洗家が「秋月橘門」以下佐伯藩の文人を蒲江に招いた時、一行は”蒲江浦八景”を漢詩に詠んだ。「青嵐」の風景として選ばれたのが「背平山(392m)」、”烽台晴嵐”である。
「登ってみるか」、元猿海岸で昼食を摂っていて知人が指差して言う。車で登れる山はどちらかと言えば敬遠して来たがその山容だけは気にはなっていた。何処から見ても常に蒲江の海岸の中心に突出した巨大な塊だ。
光の加減で海の色は変化する。車を降りて、途中、山から見下ろす元猿湾はターコイズブルーといいたいところだがこの時間は「露草色」に近い。遠く四国が見えるほど空気のキレはいい。嗚呼、それにしても何て美しい。
頂上に至っては絶句、やがて感嘆の言葉を抑えきれない。山頂は南に開かれていて逆光になる。いい塩梅に「屋形島」を前景に光る海と墨色の日豊海岸はまさに幽遠、他にうまい言葉を探せない。西に目を転じると雲間からまるで甘雨のように柔らかく差し込む光の中に遠く佐伯五山が霞んでいた。
こんな絶景はそうはお目にかかれない。去り難し。誰ぞここにヴィラでも建ててくれぬものか。嗚呼、二十四時間、いや、一週間とて感動の日々を過ごせるに違いない。かの文人達もここまで登って来てはいない。八景の全てがここに極まっている事を知るよしもなかったろう。
「寄って行くか」、と山を降りて「西野浦」に連れて行かれた。海に突き出た生簀の上の”隠れ家”で御仁は自ら造った上等の肴で一人酒を飲んでいた。「美人ぶり」を世に出した御当人だと知った。海鳥が側で囁く偶に波にふわりと揺れる隠れ家で、酒の代わりに茶を啜りながら、美味い肴付きの実に豊かな時間が過ぎていく。出るは出るはこの地の尽きぬ”海の物語”が。背平山と同様に尚去り難し。老母の夕食の時間が刻々と迫り、余す肴を持たされて隠れ家を後にした。
生簀の向こうに”夕照”が映えていた。
<畑野浦を見て死ね> 2024.03.03
畑野浦恐るべし。
畑野浦峠からの展望はいつ見ても素晴らしい。その中心に「入津湾」がある。かつて佐伯藩四教堂教授「明石秋室」はその絶景に驚嘆し漢詩「入津坂」を詠んだ。
そこから降って畑野浦の港に面する小さな山(131m)を訪れた。知人が営む「自伐型林業」の山であるが、予想を遥かに超えた光景が出迎えてくれた。
その山裾の一角から"四国八十八ケ所畑野浦霊場(お大師様道)”の小道が斜面を縫って北側の麓の「福泉寺」まで続いている。八十八体の石仏がその小道沿いに点々と祀られていて、この地区のかつての繁栄が窺い知れる。路網(作業道)は今更語るまでも無い。信仰の小道と路網が一体となって絶品の逍遥路を形成していた。
しかも驚くべきは森の多様性である。海辺の小さな山にしては山桜、樟、躑躅、あれやこれや枝振りの見事な巨樹達が天を衝いて立っている。巨大な「杉の自然木」さえ残っている。その木立の中に佇む墓所の何と美しいことか。
山の南側には神武東征に縁起する「伊勢本神社」がある。湾内の「江武戸神社」や「早吸日女神社」も同様の縁起を持つ。その他にも入津湾一帯はその伝承譚に事欠かない。その裏山辺りの小高い尾根に登ると入津湾の絶景が現れた。峠からの遠景と眼前の近景と今日は入津湾が二度美味い。
こちら側の山裾には明らかにこの山に埋もれていた「段々畑」が、樹木が払われてすっきりした為か、海風に深呼吸でもしているようだった。この山を単なる山林と呼ぶには適当ではなかろう。「文化的景観森林」とでも言おうか、小さな山の偉大な機能に感服である。
因みにこの地は土佐の長宗我部一族(戸高氏)や肥後の菊池・阿蘇氏が住み着いた歴史性、物語性の濃い地でもあり興趣が尽きない。
山を降り朝方通って来た峠方面を振り返ると東西に高く稜線が走っている。こんな高所に水系があるだろうかと思わせる左手中腹に滝が遠望出来る。右手稜線に目を転じていてふと気づいた。神武一行の占い師がそこで天候を占ったと伝わる「神武代(神武ケ原)」はどの辺りだろう。山向こうの木立小学校歌にも歌われている(朝な夕なに仰ぎ見る、南の空の”神武代”)。さもありなんと思わせる台状の山が居座っていたが、ここでは木立地区からは見えない。疑問を残したまま逍遥を終えた。
それにしても恐るべし畑野浦。恐るべし海の民。美林を後に穏やかな「元猿湾」を眺めながら「うさぎ亭」で蒲江を食させて頂いた。
この話は未だ終わらない。驚くべき体験が待っていた。
<風と光と孤独と歩く> 2024.03.02
「大原越」、京都大原を想起させて何だか情緒を感じさせる。勿論、三千院も寂光院もないし、”大原女”も多分いない。かつて佐伯領(上直見内水)から岡領(宇目大原)、延岡領(柚ケ内)と繋いだ尾根越えの旧道名である。
尾根は南北に長々と連なっていて過去も現在も日豊国境を成す。大原越そのものは途中でこの長い尾根から分岐して延岡領に降って行く。「西南戦争」の激戦地でもあり堡塁跡が尾根上に点在して残っている。ただ、どれも風化が進み今やそれらしき窪地が残るのみで兵どもの悲哀を偲ぶことさえ難しい。
その大原越を途中まで辿り更に南の椎葉山(460m)まで往復9km、5時間をかけてひたすら一人歩き続けた。春が間近に迫り大気がキレを失いつつある。佐伯地方の山々は大方が低山で夏場はとても歩けない。歩くなら今の季節しかない。
それにしても何と素晴らしい尾根なのだろう。その多彩さに飽きる事がない。往路、体力は限界に達しつつあったがその魅力に引き返す判断が鈍る。復路に残しておくべき体力が確実に奪われていく。無理ならそのまま下山するまでと腹を括った。
尾根は細くたおやか、かと思えば丸みを帯びてふくよかで、あるいは深く浅くアップダウンを繰り返し、左右にうねりも凝らしてあって、ところどころ枝尾根が方向を惑わして、両脇は概ねなで肩のようで、時に倒木した大樹が幾重に行く手を阻み、樹種や地質は一様でなく、時折り差し込んで来る光が多彩な風景画を次から次へと繰り出してくる。まるで美の回廊、魅惑の道であった。
だが展望は殆ど効かない。黙々と歩くのみ。この稜線の麓の狭隘な谷筋に国道と鉄道が並走しているが、耳をそば立てても人工音は一切聞こえて来ない。強弱の風の音だけの世界だが、それもこの日は機嫌が悪い。まるで脅すように森を揺らし続ける。孤独感が深まって独り言が増えていく。偶に遭遇する堡塁跡が何だか唯一の仲間に感じられて暫し立ち止まるばかり。
尾根を歩き続けるだけだから登山のような頂上を極めた時の達成感からはほど遠い。究極の目標が不明瞭なのだ。道程の総体が一つの充足感をもたらすようなもので一歩一歩の足取り毎にそれが増幅していく。登ると歩くはアドレナリンとドーパミンの違いのようなものかもしれない。達成感というよりは幸福感と言っていい。
歩くだけで幸福感を得られるのだ。こんないいことはない。
(西南戦争関連ブログ)
<"佐伯の山"は歩いてこそ> 2024.02.20
「稜線」と「尾根」、一般的には同じ意味に使われるが厳密には違うようだ。山頂と山頂を繋ぐ「主脈」の連なりが稜線で、山頂と平地を繋ぐ、あるいは麓に向かって伸びる「支脈」が尾根ということらしい。
「尾根ってこんな景色なんだ。だったら歩いてみたい」。”山の民”の末裔達の感想である。本匠中学校に「ふるさと講話」を行った時に使ったたった一枚の尾根の写真がそう言わしめたらしい。隣席していた民生委員をしている同級生が老母を訪ねたついでに伝えてくれた。生徒ではなく講話に隣席した大人達の余談である。
今を生きる山の民達は最早山に上がった経験は殆どないに違いない。目の前に広がる父祖の生業の根本であった山はもう生活の主軸からは遠ざかってしまったからだ。今では山々は交通を邪魔するものであり、日照時間を奪うものなのかもしれない。
山は登るだけのものではない。歩くものでもある。尾根や稜線はこの地方の「生活の道」でもあった。堆積地質の造山による佐伯地方の山々は歩くに相応しい多様な稜線や尾根を有している。
山の持ち主達はこの部分への植林はしなかった。多くが地権の境界になっているからトラブル回避の為か、暗幕の合意があってそこまでギリギリには植林しない。地勢的に樹木の生育に適さないからかもしれない。「痩せ尾根」は特にそうであろう。だから稜線や尾根は自然の造形による逍遥路の如きである。素晴らしい。そして美しい。無論、薮や岩や様々な自然の障害物で塞がれている場所も多い。それでも多くは逍遥路の如くである。
「山に登る」のは眺望への期待と達成感の獲得であろうが、それを「山を歩く」という言葉に転換してやると趣が違ってくる。
そこは生活道として利用され、山の頂は信仰の拠り所でもあったから「道祖神」や「水神」の石祠にもよく出会う。純然たる自然というのではなく生活の痕跡を宿す両者の共生の現場なのだ。
稜線や尾根をひたすら歩く。歩く事に没頭して目的はどうでも良くなる。何者か深遠な存在に見守られているような気がしてくる。何より「心の洗濯」が出来る場所かもしれない。
「佐伯市境(行政区分)」は全て稜線と尾根である。仲間がその市境(主脈)を端から歩き続けて四年目を迎える。いよいよその完結(完走)の日が迫っている。何の為に歩いているのか、などと無粋な事は聞かぬがいい。自ら歩いてみる事だ。
ただ、山が優しい今の季節しか”佐伯の山”は歩けない。
「海から眺めると裸麦の段々畑が金色に光っていた」 2024.02.10
先日、佐伯史編さん市民講座「明治時代の佐伯の衣食住」(講師段上達雄氏、別府大学教授、佐伯史編さん委員会副委員長)を拝聴した。
特に興味深かったのは海岸地方の食を支えた「段々畑(段畑)」の意味するところである。いつ頃から拓かれたか不分明であるが、これを獣害から保護する「シシ垣」は江戸時代末頃から明治にかけて造成されている。
この地方に特有の「沈降海岸(リアス式海岸)」の海岸線から尾根までまるで天を衝くようなその段々畑(想像でしかないが)に作付けされた作物は「唐芋」と「裸麦」である。かつて海岸地方ではほぼ100%「麦食」であった。芋と麦さえあれば生きる為に必要な「澱粉」が十分に摂れた。これに目の前の海で獲れる魚と野菜を食せば栄養は万全である。
だから段々畑は海岸地方の人口を倍増させた。大分県でも県南の海岸地方は兵役において「甲種合格者」が最多だったそうである。如何に段々畑が人々の健康増進と生活要件として重要であったかを知る。
一方、この人口増はやがて地元に居ては食えない状況を作り出していく。段々畑は(芋と麦は)、結果的にはこの地方から「出稼ぎ」を生み出して行くのである。典型的な出稼ぎが「豊後土工(ぶんごどっこ)」であろう。
佐伯の殿様と豊後土工 Y3-05 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)
気になっていた事を質問してみた。対岸の南予(宇和島)地方と佐伯地方の民俗的な関係性についてである。「風土」としても佐伯地方は県北県央よりは南予地方との近似性が高いと推測して来た。南予地方にも広域に渡り段々畑があった。彼の地から行商の船がこの地の海岸地方に通って来た。そんなかつての交流の日常を知ったからである。結論として「風俗の近似性」は確かに存在していると理解出来た。
また、我々の現在の活動の「核心的な部分」に触れてくれたような腑に落ちる説明も得た。かつては海は安全で利用し易い道であり、山でも同様に「山越えの道」が隣地との主要な交流手段であり生活を支えてきた。
今では海や山は危険だと考えられているが、かつてはもっとも安全で利用が容易だった「生活を支える道」であった事を理解しておくべきとの指摘である。これらの道は今や不便で非経済的という事なのだろうかほぼ消滅してしまった。それと共に「父祖の生活史」までが遠ざけられて行ったような気がする。それを再評価し身近に引き寄せる事が活動の核心的な部分と考えている。
やがて段々畑も消えてしまった。主たる理由は「食管法」(1942年)にあるらしい。強制的とも言える米穀による国民の食糧確保策が、昭和時代までは未だ残っていた段々畑を不要なものにした。
「海から眺めると裸麦の段々畑が金色に光っていた」。嗚呼、なんて詩的で美しい表現なのだろう。そういう感受性に富んだ人々の心情もまた共に消えて行ったのであろうか。
<シシ垣の余命幾ばく> 2024.02.07
久し振りに鶴見半島の「シシ垣」を見に行った(厳密には案内した)。シシ垣を知らない御仁は意外にも多い。現場を訪問したとなると極めて少ないのではなかろうか。
これは日本でも特筆すべきシシ垣である。半島尾根を這うように高さ2mを超えて延々と10kmに及び残っている遺構としては「日本随一(*)」と言っていい。これに囲われるように浦々の森林(ウバメカシの自然林)に眠っている「段々畑」の石垣もまた見事である。
これらの圧倒的な石垣群は「国指定史跡佐伯城址」の石垣に劣るものではない。豊後水道を挟んで生活文化が近似する宇和島地方では段々畑やシシ垣は「文化的景観」に指定され観光資源になっている(遊子水荷浦の段々畑、外泊のシシ垣)。因みに鶴見、米水津、蒲江のシシ垣もかつて文化的景観の「重要地域に選定」されている。押しが足りなかったのだ。
<HP資料室:35.「文化的景観について」参照>
今日は尾根から遠く豊後水道の向こうに「天慶の乱」の首謀者藤原純友の拠点であった「日振島」が見えた。「猿戸」あたりからシシ垣を辿って鶴御崎近くに行けば国木田独歩の「鹿狩り」の舞台もある。この半島には「切支丹史跡(丹賀浦、広浦、日野浦)」や戦国敗者の隠棲地(長曾我部家臣、源義経家臣)も散在している。伝えたい物語もまた多く埋もれているのだ。
久しぶりのシシ垣には成長した木々の根が張り出してあちこちで崩落が始まっていた。崩落は暴風にシシ垣に生育する木々が倒壊する事でも発生する。このことは城山の石垣も同様である。崩落は待ったなしの状況と懸念する。いずれも文化財として磨きをかけ活用するに「一級品」であるが、それ以前の深刻な事態が目の前で進行している。
(*)シシ垣最新資料:資料室「中間活動総括(P.24~29)」
<自然を屠る> 2024.02.04
友人に誘われて「サバイバル登山家服部文祥氏」を招いての講演とシンポジウムに出席した。
つまるところ、論点は、「生きる意味」を問う事にあったように思う。自然との関わりを通じて自らがその意味を獲得して行った過程が淡々と紹介された。”サバイバル”の豪胆なイメージとはかけ離れた虚飾を捨てた恬淡とした人格が終始滲み出ていた。究極を追求すると誰しもがこうなるのかもしれない。
サバイバル旅程中は棲息する動物、生育する植物、人間が捨てた残り物でさえも拾って食う。自らが直接手を下し自然にある生物(動物、植物)から恵みを得る事を追求していると、自らもホモサピエンスの原点に立っているような、自然の中に棲息する同じ生物である事に気付く。生態系の輪廻の中の一つの存在でしか無い事に思い至る。だからこの輪廻を傷めるような利便を求めない。排除する。言わばその輪廻に加えてもらう。そうすると本来的な生きる楽しさのようなものが見えてくる。そういう結論だったかと勝手に解釈した。
熊本空港から佐伯市まで歩いてくる予定だったらしいが、道すがら鹿を追って行った愛犬(ナツ)がはぐれてしまい目論見は頓挫した。
山に入り自然の恵みを得ながら移動生活をするには一週間程度が精々の自然では物足りないそうで、そういう大規模な自然は九州には残っていないそうである。ただ佐伯地方はサバイバルの為の食うものには困らないほどの自然に恵まれている印象だったらしい。
彼の生き方の半分ほどは山野に生活してきた我々の世代も、その少年の日に経験してきたように思う。子らは周囲に共生するあらゆる野草や果実や水生生物やら自然の恵みを自ら収穫、捕獲し食していた。流石に動物の捕獲は大人の役割だったが。排泄物は当然、肥料として利用していたのだ。生態系の輪廻の一端は身近にあったような気がする。
自然の恵みをいただき感謝する生活が確かにあった。何よりそれは自然に密着し暮らしていた楽しい思い出でもある。だから彼の生き方に共感する部分は多い。
自然を敬い畏れる気持ちをいつしか失って行った人間への警鐘であり、十分に納得出来る講演であった。
<風物詩> 2024.01.15
この地の「白魚漁師」は今や二人のみ、その内のお一人を「稲垣」に訪ねた。今が漁期にも関わらず今年で漁はやめてしまったそうである。遠く「尺間山」が寒々と見えるほどの曇り空の下、最盛期の漁を思い出すように仕舞い込んでいた漁具を持ち出して来て漁法やらを熱く語って頂いた。
三十年ほど前までは白魚が取れ過ぎて佐伯では捌けずに大分まで売りに出る漁師もいたほどで、多い時には一日で10kgは採れた。吸い物や踊り食いにと食膳を賑わした。
満ち潮に乗って産卵の為に遡上してくる白魚を追い込む為に岸から川中に向けて竹簗(ヤナ)を組む。それぞれのヤナは50mの間隔を保つ。遡上する白魚が公平にそれぞれのヤナに掛かるようにする為の漁師仲間の配慮である。下流のヤナで採り損なう事を前提にしている。それほど大量の白魚が登って来た。
白魚の減少と共に小舟に乗る漁師も採り過ぎないように二人から一人に制限し上流のヤナとの漁獲機会の公平性を守った。ただ、下流が有利かというとそうでもなくて下流は水深が深く漁には不都合である。やがて白魚も小さくなっていった。
白魚を掬う漁具も独特である。川面に汲めども尽きぬほどに大量の白魚が蠢いて遡上してくる。「追い棒」という先端付近にいくつかの黒い端布を付けた竹竿を水面に動かして細長い三角形の袋状になった網に巧みに追い込んでいく。これを何度も繰り返せるほど白魚の遡上は後を絶たない。技術の差が出る。
白魚漁は全国至る所で盛んで九州では福岡市内を流れる室見川が有名である。佐伯地方では番匠川以外では支流の堅田川でも漁をした。漁法も様々で室見川では筌漁である。だから想定外の鮎も入って来て鮎漁師からクレームが出ることもある。
番匠川では竹を利用してヤナを組む。防提用の竹が偶々豊富に生えていた事による。何百本の竹や支柱を川底に打ち込む。これが辛い作業である。その防提もコンクリートに置き換わって今はすっかり材料の竹さえ無くなってしまった。
江戸時代以来、番匠川の白魚漁は稲垣地区「長瀬」の人々に限定して許されてきた。今日まで漁業権がこの地区のみに付与されて副業としていい現金収入になった。白魚の餌はミジンコであるがその減少と共に白魚もやがて消えていった。漁をしても最早その労苦に見合わない。
白魚に限った事ではない。番匠川に以前は豊富に採れた鰻も鮎も蟹も居なくなってしまった。番匠川の水質は魚が棲むには全く問題ない。九州一を誇る清流である。問題は餌を養う環境の破壊にある。井路も岸辺も人間の都合で流れまで矯正されてコンクリートに置き換わってしまった。ミジンコを始めとするそこに棲む多様な水生生物や植物がすっかり消えた。小さなものが大きなものに食われる食物連鎖が絶たれ鰻も鮎も蟹も消えざるを得ない。
昔は川は今ほど清くはなかったが生物を養う環境と滋養は豊富だった。人間優先の居心地の良い環境へと自然を作り替えてしまった事が生物の生存領域を奪った。川は清くとも多様な生物が棲み易い環境は消えた。それは最早貧相な川であろう。だから自然と人とが織りなしてこその風物詩も共に消えていく運命にある。この地方に独特の鮎の「チョン掛け漁」もやがて風物詩に格上げされて消え行く運命にある。
多感な人間の子供達さえも岸辺に遊べなくなってしまった。自然と人との垣根が高くなっては風物詩という言葉さえも死語になっていくのであろう。あの国木田独歩が愛した土地からさえも。
<岬巡り> 2023.07.02
地元の友人が佐伯地方の海岸線は凡そ270kmの長さを有すると自慢する。その100km程を残し北端から始めた岬巡りを蒲江の「仙崎砲台跡」で終えた。完全踏破は間近ではあったが夕刻も迫り「海神」が海霧を発生させたのを潮時と見て岬を辞した。
離伯が迫り友人達が別れのピクニックを提案してくれていた。梅雨前線が長きに渡り停滞中で、友が共にあれば雨中もまたよし、といつもの日曜日を選んでおいた。コース選定は自らの役目である。豊後水道を思った。遠く記憶の中に「海人族」が見えた。「海部」の民の末裔として最後はこの地方の全ての岬を巡るしかないとコース設定した。
だからか海神はこの一日に限り、豊後水道に奇跡的な快晴を用意してくれたのだろう。仲間内に「晴れ男」の冠を確定的に許された神がかりの好日となった。
いつもの三人組の珍道中は津久見への「鏡峠」を超えて「四浦半島」を目指す。津久見の海岸に出ると行く手に濃霧が発生していた。暖気が湿潤過ぎたのである。それでも「四浦展望台」を諦めずに目指したことが吉と出た。この絶景に今日は何が起ころうと文句を言うまいと皆が思った。空はどこまでも澄んだ青、地表に海は消えて佐賀関まで連なるいつもの岬はまさに山並みに転じ、雲海が「どうだ」と言わんばかりに視界を支配していた。
このピクニックを「岬巡り」と銘打つと「海岸通り」がいいと友人がかつての切ない想いを歌に仮託しようとする。却下、「岬巡り」がその全てを包含している。この珍道中をモニターしていた仲間は「潮風のメロディ」ではとても似合わないと揶揄してきた。海にはかつてそれぞれの恋があった。
展望台を降りて東洋のナポリ「保戸島」の対岸にある「間元港」を目指す。ここは県下で最大の柴田姓の集住地でもある。狭隘な「間元海峡」の潮の流れを眺めていると後方で友が既に地元の人に声掛けしていた。どうしても彼の「一期一会」趣味がそうさせる。地元民が「後ろを見ろ」、振り替えると墓地がある。林立する墓碑に刻まれた名は柴田姓一色、それにしてもここまでとは、一同唖然である。檀那寺は近くの陸側にある「本教寺」ではなく眼前の保戸島の「海徳寺」である。肝腎の柴田姓ルーツは既に地元民にも分らない、だから「檀那寺にきけ」。
今日は鮮明に豊後水道の上に浮かぶ四国の山並みと並走しつつ「蒲戸岬」を「最勝海浦」に回り込む。半島の突端では蝉の鳴き声が車中を機銃掃射してきて、兎に角、五月蠅い。ここだけは既に盛夏にあった。
「リーフデ号」が投錨した紺青の「上浦湾」を南下する。「天海展望台」からの上浦湾も筆舌に尽くし難い。友はかつてこの高台で告白のときめきに震えた。しばらくは「海岸通り」でよしとしよう。それにしても海の色が見事である。そこには幾多の淡い恋も沈んでいるのだ。後ろ髪を振り切って一行は「ジイジの握り飯」の午餐場所を探さねばならない。日差しが尋常ではない。影を求めねば三人とも干上がり珍道中は棄権である。
「丹賀浦砲台跡」にある展望台の「桜の園」を思い出した。高台には心地よい海風が通り抜け遠景は「佐伯五山」、眼前に「大島」の優美。もう一人のモニター仲間の表現が秀逸だ。「海と木漏れ日の美しさはブローニュの森を凌ぐ、モネならそう言うに違いない」。実は緑陰は上空からジイジの午餐を狙うトンビの襲来を防ぐ効果もあるのだ。今日は保冷剤たっぷりと鮮度も申し分ない。
引き潮が終わる頃である。「元の間海峡」は緩やかに流れを取り戻し始めていた。激流よりは緩流が好ましい。皆、そう感じる齢に至った。ふと佐伯湾を囲む北の四浦半島の「間元」と南の鶴見半島の「元の間」の海峡名の妙を思った。それぞれの海峡を生み出している保戸島と大島は戦国期に「滝川一益」の侍大将だった「望月信房」の子息である「神崎兄弟」が移り住み拓いた。保戸島の「加茂神社」や海徳寺は兄が、大島の加茂神社や「正徳庵」は弟が建立した。何かこのあたりに関係がありそうに思えるのである。
「鶴御崎」では突端の灯台まで行く必要はない。手前の「展望プリッジ」が全てを語ってくれる。ブリッジは半島最高峰「ワルサ山」に次ぐ高さの山頂にある。「元越山」から龍の背を思わせる尾根が延々と足下に伸びて来ているのが一目瞭然である。その脇に「米水津湾」が水墨画の世界にうたた寝中であった。眼下の青の海と白い灯台は皆のかつての恋を再燃させかねない危険をはらんだ光景であった。
時間が押してきた。「空の地蔵尊」は諦めよう。一路、仙崎灯台跡を目指す。麓からの山道は幅広のワゴン車には過酷だ。九十九折の苔道を登れども目的地への案内板が何処にも見あたら無い。やがて仙崎の断崖側へと乗り越えた。細い道は崩落寸前で間もなく尽きた。流石に背筋が凍りつく中、そろりそろりと折り返し右往左往していると砲台跡への山路を探り当てた。
遠く「深島」や蒲江の浦々を夕霧が被いはじめ、「入津湾」を囲む山々の上には積乱雲が鮮やかに立ち昇り、海神がそろそろ梅雨前線を呼び戻すぞと言っているようだった。断崖上に朽ち逝く三基の砲台跡を退散した。
それにしても地元民の君らがこれら数々の絶景に初めて立ち会ったと感動するのは頂けないことだ。素晴らしい宝物を見逃して生きてきたと言っているようなものではないか。
さらば海部の人々、深く愛せ、ふるさとの山野河海。そこには神々が宿っている。間違いない。
<"ネッシー"に会いに行った> 2023.06.05
田に水が入る頃になって里山に響く音が突如として一変した。つい先頃までは、鹿や野鳥の求愛の声が甲高く響き渡っていたが、それでも鮮烈なその音に心地は悪くはなかった。特に夜になると静寂を深めていく効果音でもあった。
が、今はいけない。その音がすっかり遠ざけられてしまった。兎に角、今は蛙の鳴き声が五月蝿い。空間をぎゅうぎゅうに埋め尽くしてうめき鳴く。朝まだきは未だいい。一日でもっとも大気が冷えている為に鳴く事も出来ない。貴重な静寂の時間だ。それも直ぐに喧騒の時間に変わってしまうだろう。二十四時間、大気がまどろみ始める。
蛙は冬眠する。大気がおよそ10℃を下回ると冬眠する。地表は既に20℃を上回っているが里山の朝夕は未だ10℃代だ。まずは地面が温まって、やがて土の中も10℃を超してくるのが田植えの時期あたりなのだ。
それにしても何も一斉に目覚めなくてもよかろうものを田植えの頃に決まって集団で泣き始める。それまでの里山の情緒もこれで瓦解する。秋までその情緒は戻らない。それほどに蛙の鳴き声は圧倒的である。本来、求愛とは凄まじい行為なのだ。「カエルの輪唱」なんて悠長なものではない。それでも子供の頃から長年付き合って来た憎めない“ばっぷくどん”だ。田植えを勢い付けてくれるような気がする。
“ばっぷくどん”が目覚める前にネッシーに会いに行ってみた。栂牟礼城址と磨崖仏のある上小倉の山の上に御光が差して来た。そろそろ“ネッシー”が現れる兆しかもしれない。“ばっぷくどん”も鳴りを潜めている。
暫く待ったが現れない。先般の大雨で川は増水している。上流の「鬼ケ瀬淵」まで登ってしまった可能性が高い。そこは“物の怪”が棲むにはもってこいの神秘的な淵だ。そっちに回ってみよう。
人々が“物の怪”を感じなくなって久しい。自然を敬う心を喪って行ったからだ。それは神仏を敬う心とも繋がる。そういえばかつて日豊一帯に悲劇の武将・佐伯惟治の怨霊が荒れ狂った。人々は霊を鎮め、あるいは武勇を称え、多くの神社を建てこれを祀った。「鬼ケ瀬淵」を更に遡り「宇津々谷」に入ると惟治の供養碑がある。佐伯氏の家臣が帰農した地でもある。“ネッシー”はひょっとしてそっちの化身の部類かもしれない。
旧道を「鬼ケ瀬淵」まで戻った。佐伯藩士・小林久左衛門が開いた「鬼ケ瀬井路」の恩恵は計り知れない。その取水口で水量調整の為に当番の里人が一息ついていた。間も無くその水が”ばっぷくどん”の田んぼに流れ込んでいく。淵は増水にやや濁っていた。
「ネッシーを見なかったか」、とは流石に聞けなかった。路傍に紫陽花も満開だ。我が里の“ばっぷくどん”が目覚めて待っている頃だ。
<”ネッシー”を見た> 2023.05.27
半年振りに早朝の地元を隔日でwalkingしている。野山に冬と初夏の違いが見て取れる。あれほどいた冬鳥が川面に消えた。北に帰って行ったのだ。その代わり南から渡って来たホトトギスが朝のみならず晩も五月蝿くて仕方がない。他の鳥に托卵させるズルい奴だから少し遅れて飛来する。今の時期が最適なのだ。
山々がふかふかと柔らかい。固く縮こまっていた木々がもろ手を挙げているからだ。山の端の朝日はまったりとして最早突き刺してはこない。空気は水気に浸っていて重くて動かない。山が蒸されていく。山霧が立ち込めて平面的だった景色は奥行きを増してくる。何だかどの山も眠そうだ。
ただ、辺り一帯にエネルギーが蓄えられつつあるようでこれから一気にそれが噴き出してくるような予感がする。
おやっ、何かが誘ってくる。川面がキラキラと光るのだ。銀鱗だ。水面付近で魚が躍動している。これは新鮮な驚きだ。冬場は魚も川底でじっとしていたのだろうか、この煌めきを冬に見た記憶がない。よもや冬鳥が去って捕食される危険が去ったからでもなかろう。それとも最近放流された鮎の稚魚が瀬の苔を食んでいるのかもしれない。スマホカメラでは捉えきれない一瞬の光だ。
今日は番匠川のかなり下流まで行った。川幅も広くそして深くなる。復路、流石の疲れに歩調を緩めて土手を歩いていると勢いのある大きな音が断続的に川に響き渡ってきた。まるで何かを食いちぎっているような、何かを叩きつけているような不気味な音に聞こえてくる。土手からは遠過ぎて何物かを確認出来ない。何か大きな生き物がゆっくりと上流に動いていくのが波紋と飛沫で分かる。魚にしては巨大だ。じっと目を凝らして探っていると突然方向を転じて波を立ててこちらに向かってくる。「お前は何をみているのだ。」と迫ってくるようで怖気付いて逃げ帰って来た。
あれは番匠川の”ネッシー”だったに違いない。もうあのルートには当分行かないことにした。未だこの地にはもののけの類が棲んでいる。
<「ニイタカヤマ」に登った海人族> 2023.05.19
約80年前の同じ五月、佐伯の街は米軍のB29の二日間にわたる爆撃を受けた。軍港であり海軍佐伯航空隊(1934年開設)が置かれた佐伯が爆撃対象となる事は必然であった。基地は灰燼に帰した。
国木田独歩をこの地に招いた矢野龍渓は先見の明があった。これに先立つ軍港の受け入れへの佐伯町長の具申に対し、「断念すべし、平和事業を目指せ」と。その後、佐伯湾は帝国海軍の恰好の演習場となっていったが、新たに航空隊の設置と共に帝国有数の軍港になった。独歩の愛した城山にも爆弾が落ちた。
小さな街にとって基地化による投下資本は莫大なものになる。関連インフラも最優先で整備される。市民は挙って歓迎した。四万人に満たぬ街に新たに五千人が増え、県下で初めて水道も設置され、見返りは大きかった。
代わりに女島の土地を差し出した。「広大な番匠河口の干潟」も埋め立てられ滑走路となった。九十九浦には軍事施設が築かれ海岸線は要塞に変貌した。「海軍呉鎮守府」の管理下、航空隊はその入口に当たる豊後水道の防備を担った。本城に対する出城のような関係である。
日中戦争での「重慶爆撃」への出撃、「零戦の初飛行」もこの最新の基地からであった。海軍のエース・パイロット「坂井三郎」中尉もこの地で練習に励んだ。
そして太平洋戦争の火蓋を切った「真珠湾攻撃」はこの港に始まった。海軍機動部隊が佐伯湾に大集結し模擬演習の後、旗艦赤城艦上での山本五十六司令長官の訓命を受け米軍を欺くべく北洋の「択捉島単冠」を目指して出港して行った。一部の者を除いてその目的を知らぬまま。
佐伯湾は真珠湾とその地形がそっくりである。山本司令長官はこの湾で航空隊に攻撃訓練を重ねさせる。真珠湾攻撃のシミュレーションだとはパイロットも知るよしもなかったろう。
日米最終交渉への一縷ののぞみも虚しく、「ツクバヤマハレ」ではなく「ニイタカヤマノボレ」の開戦指示の暗号電文が荒波の北洋を真珠湾に向け航行中の機動部隊に発信される。「トラトラトラ」、われ奇襲に成功せり。「これは演習ではない。」、米軍は暫くはそう伝達せざるを得ぬ事態認識にあった。機動部隊は佐伯港に戻ってきた。
呉を出港し最後の出撃となった戦艦大和を豊後水道に護衛した佐伯航空隊も同艦の撃沈(1945/4)に符号するように事実上の使命を終える。
その旧海軍航空隊基地の痕跡を追った。これまで「平和祈念館やわらぎ」の存在さえ知らず赤面の限り。ただ一人の入場者にボランティアの方が懇切丁寧に説明してくれた。我が身の無知さ加減に恥いった。
近くの濃霞山に掘られた基地施設を訪ね、滑走路跡に建てられた工場内の「掩体壕」を訪ね、埋め立てられた現在の女島の突端付近で海軍の演習場・佐伯湾を今までにない感慨で眺めた。
こういう故郷の昭和の歴史を知る事もなく、知る事もせず、月日が経過していた。雨あがりの佐伯湾の穏やかな景色が身に沁みた。
「文人墨客来たれ、されど佐伯は遠し」(2021.10.11付けブログ抜粋)
連合艦隊司令長官・山本五十六はこの地から真珠湾攻撃の発進命令を出した。かつての唯一の海上への解放空間は、海人族の海上の道は、この地から日本国家存亡に繋がる道に変貌してしまったのである。それはそれで忸怩たる思いを払拭出来ないのである。武人より文人を魅了する地であって欲しいものである。
<百年の孤独> 2023.05.02
因尾にある「本匠村郷土資料館」を訪ねた。「民藝運動」の「柳宗悦」に倣おうという訳ではない。普段は鍵がかけられている。来訪者は年間数人もいないらしいから管理上それも仕方のない事である(盗難防止を第一とする)。ただ、展示物を説明出来るスタッフどころか説明資料さえ無い。何の為の資料館か存在が曖昧になってしまっている。
町村合併前までは貴重な民俗資料の保存を兼ねて村人に大切にされて来た。納屋や蔵の奥に納まっていた古い民具や農具を村人が提供してこの貴重な民俗コンテンツが成立したのである。村人の心が消失寸前となっていた貴重な「民俗の命」を救ったといってもいい。その意味ではまさに柳宗悦の世界かもしれない。
レトロな赤い郵便ポストが入り口傍に立っていた。鍵の掛け金は錆びついていて、引戸式の古い板の扉も力を入れないと開かない。中に入ると何とも表現し難い匂いが襲って来たが、これが「民俗の匂い」という奴なのだ。古い時代の空気さえもが共に保管されている。
展示物が一斉にこっちを振り向いた。かつてご奉仕したご主人様だと勘違いしたに違いない。どれもこれも元の体のままの奴は少ない。まるで野戦病院だ。「すまない。手当してやる事は出来ない。大切にしてくれた人達はとうの昔に去ってしまったのだよ。」
一階の脇の小部屋には懐かしいふるさとの光景を伝える写真も展示されていた。現存するのは多分ここにある写真だけに違いない。写真のネガの所在とて伝える人はいないだろう。この干からびた一枚一枚が、かつての村の風景を伝えてくれる唯一の形見なのだ。
階段を上がった先の小部屋の展示室のガラスケースの中に、紫外線による劣化が酷い村の古文書や調査資料が展示されていた。展示と言うよりは、ただ置かれていると言った方が間違いが少ない。曇ったガラス越しに「最早、役立たずです。」と訴えているようだった。二度と蘇ることのない村の貴重な生活の墓標にも思えて悲しくなってしまった。ここは郷土の資料館であるはずなのに。
この木造の郷土資料館は旧因尾村の役場だった。竣工以来、来年は「100周年」に当たるはずである。このまま黙って見過ごされてしまうのだろうか。文化行政の実態を垣間見ることが出来る日が来年は確実にやって来る。
外に出ると中の空気とは一変、一帯は甘く濃密な新茶の香りが充満していた。今が新茶を製造する最盛期である事を知った。「因尾茶」は古くから「釜炒り製法」で作る。その唯一の工場が側にある。日本でも手に入れ難い希少な茶である。新茶に加えてこの茶葉で作る紅茶も甘味があって美味い。
上流に行ってみると山野の新緑に囲まれてそれより更に瑞々しく輝く一面の茶畑が茶摘みの始まりを今かと待っていた。郷土資料館を抱く山々はこの上なくいい季節にある。
百年目が来る。
<俺が居る> 2024.05.01
二年前、ブログに「母のツバメ」を書いた。今でも一番気に入っている文章かもしれない。その「春告鳥」が昨年は母の家に営巣しなかった。蛇に狙われた記憶が残っていたのだろう、戻らなかった。母は一人ぼっちになった。
それが今年はツバメに加えスズメも母の家に戻ってきた。ツバメは二年前にここに産まれた三番子までのいずれかの一羽なのだ。二年の時を置いて遥か南方から飛来し、巣立った母の家を探し出す能力は大したものだ。その抱卵の姿は神々しくさえある。もっとも世代を重ねて毎年同じ場所まで五千キロを旅する蝶がいるくらいだから動物の能力は計り知れない。
はたくほどいたスズメも田んぼから消えていたが、不思議なことに今年はそこらじゅうで五月蝿く啼いている。
里山に人気が無くなって久しい。ツバメやスズメは人が始終出入りする家に居着く。多くの人家に人がいなくなり、これらの鳥達も共に里山から消えていく。いたとしても一人住まいで表に出る事の少ない母の家が営巣場所として選ばれる確率は低い。なにより家の賑わいが必要なのだから。
今年はツバメもスズメもその母一人の家にも飛来した。ツバメは既に卵を産み、側では遅れじとスズメが巣作りの材料をせっせと軒裏に運び込んでいる。その健気さに見飽きることはない。母は今年は一人ではない。
いや待て。これは自分のこの時期の帰省が影響しているのではないか。彼らは母の家の人数が二倍に増えた事を知ったのだ。母の家は一人暮らしの多いこの里山で彼らの選択肢の上位に躍り出たのだ。悪い気はしない。「春告男」になった気分だ。
ツバメは通常三番子まで卵を産む。夏の終わりまで玄関に賑わいが途切れる事はないだろう。だが軒先のスズメよ、気をつけた方がいい。高い確率で青大将に狙われる。青大将にとって軒に這い上るのは容易い事なのだ。玄関の上に営巣するツバメにとっても隣の軒先で起こりうる事態は心穏やかなことではないだろう。来年も営巣すべきか否かいずれ選択を迫られることになる。
まあ待て。今年はスズメが多い分、ツバメが狙われる確率は低い。二年前は側にスズメはいなかったのだから。それに何より今は俺がいる。
<じいじの握り飯よりアケボノツツジ> 2023.04.23
山が濃淡のピンク色に染まっていた。アケボノツツジとミツバツツジが今を盛りに山頂に咲き誇っていた。「山笑う」とはまさにこういう事を言うのだろう。そのピンクのベールの間に間に日豊の名山も蒼天の下に四方で笑っていた。
今回はじいじが同行出来ずコンビニの握り飯を調達して山に入った。天気が不安定な時期にも関わらず、終始、これ以上ない好天で花は満開と、言うことなしであった。じいじの握り飯が付いてきたら過去最高の登山だったに違いないが、最近のコンビニの握り飯はじいじの握り飯に肉薄していた。
麓から車で標高を上げるに連れて木々が多彩さを増してくる。山裾に広がる黒々とした杉林は、その中に勢力を張ってモスグリーンに輝いている椎の木の若葉の今だけは引き立て役でしかない。渓谷を縫う道を更に高度を上げて行くと新緑が道そのものを包み込み始める。新緑を透かす光は更に眩しさを増してくる。右手頭上には鷹鳥屋山の岩峰が圧巻で、やがてかつて平家の落人が隠棲したと言われる藤河内集落が対岸の小高い丘の上に見えて来る。春の光と新緑が明る過ぎて今はその集落に苦難の歴史を想像しようがない。
藤河内渓谷をやり過ごして更に奥地に進んで車を捨てる。乗り捨てられた車の数に今日は山の上は賑わっていそうな事が分かる。登山口に取り付くとのっけから直登のきつい尾根が続く。大輪の赤いシャクナゲが薄暗い林間にちらほらと顔を覗かせ始め、息を切らして人工林を抜けると麓とは違って木々は未だ若芽で樹間が透けて眺望がよくなってくる。やがて濃いピンク色のミツバツツジが尾根道を華やかに染めて、もうこれで十分だと思わせるくらいに直登の尾根の傾斜は足腰に容赦がない。アケボノツツジは未だ姿を見せてくれない。
だから高木のアケボノツツジが山頂付近に出迎えてくれると感嘆の溜め息がついて止まらない。薄ピンク色の花々が周囲の色という色を吸収してしまったかの如く背景の青空を染めていた。
上りの傾斜がきつかった分、下りは膝への負担が尋常ではない。傾斜角度のきつい直登の登山道の連続で「膝笑う」状況であった。
今回はじいじの握り飯が一緒だとしてもアケボノツツジには負けたかもしれない。
<遥かなる山の呼び声> 2023.01.26
「豊後の国佐伯」を去って一週間が過ぎた。佐伯地方の山野河海を巡り歩いたことを体は忘れていない。だからしつこく歩かせろと言ってくる。都会の街路や公園を歩くのだが何だか体がすねている。安全で歩き易く自然も整然としていて美しい。どうやら体にとってそれが面白くないらしいのである。箱庭の自然だからであろう。
遠く丹沢山塊の稜線が見える。最高峰は蛭ヶ岳で1,673mと佐伯五山の一つである傾山(1,605m)よりやや高い。富士山も稜線の後ろに偶に頭を覗かせる。今までは何ということもない風景だったが今は心を騒がせる。あの稜線を歩きたい。
国木田独歩を思った。独歩にとって「豊後の国佐伯」は特別な存在であった。佐伯は独歩を覚醒させた地である。佐伯なくして独歩の文学は成立し得なかった。この地で独歩はその自然に深く動かされワーズワースに没頭した。飽くことなく佐伯地方の山野河海を歩き回った。この地の自然とそこに調和的に生きる人々の風景は心を打つものばかりだった。独歩にとって、この「僻地は宝の山と海」だったのである。佐伯を去って後、「佐伯を思い出すと涙がこぼれそうになる」独歩の心情が、今、分かるような気がする。
帰省中はその「日豊をぶらりぶらり」した。そして今得心したのである。佐伯の最大の宝物は国木田独歩の愛した風土なのだ。それこそ佐伯にとって唯一無二の価値なのだ。独歩の作品には佐伯地方のあらゆる風景が感動をもって生き生きと描かれている。それを再発見すればいいのである。そこには「自然と人間の関係性」という普遍的価値が潜んでいるように思うのである。
何だか丹沢の稜線を歩いてもその感動は得られないような気がしてきた。嗚呼、佐伯地方の山の呼び声が止まない。
「豊後の地、山険にして渓流多し、所謂山水の勝に富む。茲は別天地なり。国道の通ずるあるなく、又航舟の要路に当たらず。山多く已に水田に乏しく、地痩せて物産すくなし。 」(豊後の国佐伯)
「余が初めて佐伯に入るや先ず此の山に心動き。余已に佐伯を去るも眼底其景容を拭ひ去る能わず、此の山なくば余には殆ど佐伯なきなり。」(豊後の国佐伯)
「自分の眼底には彼地の山岳、河流、渓谷、緑野、森林悉く鮮明に残っていて、我故郷の風物よりも数倍の色彩を放っている。」(小春)
「僕は此の詩集(ワーズワース詩集)を懐にし佐伯の山野を歩き散らかしたが、僕は今もその時の事を思い出すと何だか懐かしくて涙がこぼれるような気がするよ。」(小春)
「自分が真にワーズワースを読んだは佐伯に居る時で、自分が尤も深く自然に動かされたのは佐伯に於てワーズワースを読んだ時である 。」(小春)
「山に富み渓流に富み、渓谷の奥に小村落あり、村落老て物語多く、実にワーズワース信者をして「マイケル(牧歌的な詩)」の二三は此処彼処に転がって居そうに思はしめたくらいである。 」(不可思議なる大自然)
「自然を思ひ、人間を思ひ、人類の歴史を思ひ、人の生活を思う。思うて止む能わず。嗚呼思うて止む能わず。美しい哉自然、而してその間に多くの此自然と調和する人間を見たり。皆な美しき配合を想像の裡に形づくる也。」(欺かざるの記)
<白い一日> 2022.12.24
古来、旧中野村との交通を阻んできた鬼ケ瀬の深い淵もそこに流れ込む白谷とよばれる峡谷も石灰岩塊で出来ている。この峡谷一帯の集落を「風戸」といい、その上流、標高500mほどの山上集落を「風戸山」と呼ぶ。更にその上に巨大な椿山(659m)が屏風のように聳え立っている。番匠川の下流沿いの何処からも見ることが出来る巨峰である。
この白谷峡谷には「豊後国志」にも紹介されている「風戸洞」、「白谷洞」、「地獄谷」がある。いずれも水流が巨大な石灰岩塊を穿ち、削って造形したものである。風戸洞は河床近くに穿たれた鍾乳洞で豊後国志には、「冷たい風が常に吹き出していて時に強く時に微か」とあるように、風が湧き出る不思議な洞窟で「風戸」の地名の語源になった。少年時代にこの穴に入った事があるが今回は場所を探せなかった。
「斧が裂く如し、白石磷磷たり(斧に切り裂かれたような谷で玉が光り輝いている)」とあるのは地獄谷のことである。岡藩竹田村に生まれた江戸期の南画家、若き日の「田能村竹田」が踏査しそう報告した。「石壁白色にして玉の如し」は白谷洞を表現したもので通称を「蝙蝠穴」という。いずれも少年時代以来の探訪であったが道筋は自分で探すしかない状況になっていて今や地元住民からも忘れ去られてしまっている。同行した地元の友人達も初めての探訪であったのだから嘆かわしいことだ。
奇跡のような光景があった。地獄谷の入口は狭い。その上部に落石が挟まっていた。ハートの形をしている。後年の崩落によるものと思われる。すぐ側まで石灰砕石現場が迫っており谷に昔日の絶景は減じていたが谷底の大きな白い玉は輝いていた。対岸の蝙蝠穴に小さな入口から腰をかがめて入ると巨大な薄暗い空間が現れる。上から明かりが差し込んでいた。近づくと先ほど見た地獄谷入口のハートの石がそこから吹き飛んでいったような同じ形をした穴が開いていた。この対のハートは脚光を浴びてもいい。穴の中は湿気を感じ暖かく年中気温変化のないことが分かる。奥は深く「石壁白色」はややくすんでいた。この洞窟に狩猟採取の旧石器人が住んでいた可能性を否定する必要もなかろう。
そこから風戸山に登った。弥生地区の谷口、尺間長畑を繋ぐかつての峠の集落でもある。10年ほど前に最後の住民が麓に降りた為に長い歴史を閉じた。最盛期には80戸程の大集落で椎茸栽培を専らにした。原木となるクヌギ林は十分な程に成長し冬日を浴びていた。森閑とした尾根の端に鵜戸神社の廃墟がある。その脇裾の台地に室町末期まで辿れる五輪塔の一群が残る「寺屋敷跡」がある。五輪塔は無惨にもいずれも倒壊し、広場は猪の「ぬたば」になっていた。麓に降りたかつての住民を訪ねると寺も神社も由緒があったとの話であったが民俗の伝承とともに絶えてしまった。それでも今も尚、何とも摩訶不思議な雰囲気の漂う風戸山であった。
そこから一気に椿山に直登した。佩盾山までの本匠地区の北尾根を一望出来る絶好の山である。遠く佐伯五山の輪郭も鮮やかに、振り向くと異様なまでの尺間山が彦岳の前に立ち塞がっていた。豊後大野平原の向こうにはくじゆう連山や鶴見岳が白く輝いていた。前日は雪もちらほら舞う寒風の中、三重カントリーからこの北尾根に向けてショットを放ったばかり。少々老体を酷使し過ぎではないか、と山の北風に言われたような。
梓峠でのそれを凌ぐまでの豪勢な友の手作りの午餐を山頂に催し、皆の今ある健康と生きる悦びに頭上の天に感謝した。帰路、麓の訪ね人の「風戸洞は石灰砕石の都合上崩落せしめた」との言葉にやや心が疼いたクリスマス・イブでもあった。
<思い出ぼろぼろ> 2022.12.09
労働の後は出かけたくなる。鶴見の沖松浦でタイムスリップした。父の西中浦中学校赴任に伴いそこに五年間住んだ。60年前の事である。地松浦と沖松浦に挟まれた埋立地に西中浦中学校があった。校庭は海に面し豊かな青松が風を防いでいた。その中学校と背中合わせの松浦小学校に二年生まで過ごした。父は25年後に二度目の赴任をしている。
佐伯からは未だバスは通わず、国木田独歩も伊予経由船で赴任してきた葛港からの定期船が人々の足だった。沖松浦の吉祥寺(1571年創建)の下の成松家の空き家を借りて住んだ。成松氏は伊予法華津氏を祖とする。沖松浦は成松姓と広津留姓の本拠地でもある。
その後、中学校の脇を流れる小さな川の河口付近にあった木造二間の村営住宅(昭和36年初まで鶴見村)に住んだ。今はいずれも更地となっていて思い出の痕跡を探すことは不可能だ。
沖松浦の真浦と北浦の間に旧道が残っている。海岸沿いに新道が出来た為に温存された。その代償に網小屋や小石を敷き詰めていた浜は消えていたが、あの日に変わらずトンビが舞っていた。
その旧道を歩いた。古びてしまったが見覚えのある家が吉祥寺下の角地に残っていた。過去と現在が同居しているような空間だ。この家でよくテレビを観せてもらった。毎夕刻のヤンマー提供の天気予報の映像と共に流れていたチェロの奏でる切なくも雄渾な旋律の「サンサーンスの白鳥」が幼い心に染みた。以来、今に至ってもこの曲を聴くと沖松浦のこの家を思い出す。今は空き家になっていた。
裏手の階段から吉祥寺に登った。感動的な光景が待っていた。幼い日、その実を拾った椎木が未だ階段横の斜面に残っていた。当時は空が暗くなるほどに枝ぶりが見事だった。正式には「スダジイ」、樹齢350年とあった。当時、階段は鉄柵の代わりに椿の生垣が続いていた。椎木に見守られながら遊んだ思い出深い場所に差し込む陽光が眩しかった。
寺は建て替えられていて面影はない。クジラに運ばれたとの伝承のある十一面観音はご開帳の日まで厨子に収められていて拝めない。成松氏の先祖が海から拾い上げ祀ったと伝わる。それでも「花まつり」にお釈迦様の像に甘茶をかけた思い出が蘇ってきた。その味覚も舌に未だ残っている。
参道側から降りて集落を巡った。当たり前とはいえ全く様変わりしていて記憶が戻ってこない。蜜柑畑もメジロ獲りをした山道も消えていた。旧道に面した網元の大きな家も、家の軒を覆っていた松の大木もない。その脇を流れていた小川も見つからない。塀だけが残っている廃墟があった。近寄るとその塀には見覚えがある。懐かしい記憶が戻って来た。そこを駆ける幼い自分を追った。
借家した寺の下の更地には成松の表札の残る門扉だけが残っていた。昔はこの家の庭は生垣に囲われていた。砂糖をまぶしたきな粉がおやつだった。椿だったか柊だったかその硬い青葉をスプーンにした。入れ物替わりの丸めた新聞紙の底に入ったおやつをコフッコフッとむせびながら掬って食った記憶が戻ってきた。
二番目に住んだ借家の跡地まで来た道を戻った。学校脇を流れる小さな川では鰻釣りや小魚を掬った。鰻の棲んだ石垣の堤は消えて川床さえもコンクリート張りになっていて思い出もその下に埋められてしまっていた。その小川を遡ると天神社がある。その先は田圃が広がりどんど焼きが赤々と空を焦がした。そこに住宅がひしめいていた。
あの頃のクラスメートはどうなっただろう。同じ記憶を共有しているはずなのだが彼らにはこの地に60年の空白は無い。父が大切に保管していた西中浦中学校の閉校記念誌にそれから7年後の彼らの卒業写真が載っていた。小学校二年生の時の集合写真を眺めつつ面影を探したが殆ど分からない。それでも懐かしい何人かの顔が確かにそこにあった。
父の離任の年に佐伯から初めてバスが通った。そのバスの通った旧道から幼い自分を乗せて帰途についた。また来てもいいかな。
<田園の違和感> 2022.12.08
「何だ、あの異物は。」、第一印象である。
昔の田園にない風景に違和感を覚えるのは仕方がない。稲刈りを終えたそれぞれの田圃の一角に白いシートで覆われた牧草ロールのようなものが積み上げられている。何だか東北の原発事故による汚染土を仮保管している黒い土嚢が想起されるのは仕方がない。何しろ昔の田圃には存在しなかった異物なのだから。
全く知らなかった。多くの田圃で食料米に代わり飼料米を作っている。一般的に人間が食すには適さない。稲穂ごとロール状にして家畜の飼料にする。その保管風景なのだ。発酵させているのだろうか。長い時間そのままに置かれている。サイロなんて大規模な保管施設がないからなのかもしれない。
違和感の元は他にもある。欧州でよく目にした牧草ロールの置かれた田園風景である。風に運ばれてくる牧草の匂いと牧草ロールの風景は欧州の田園風景に欠く事の出来ない美である。その光景が重なって違和感が増幅するのである。仮にシートに覆われていなかったにしても日本の田園に「稲穂」ロールは馴染まない。昔日、あちこちに点在した「積み藁」の光景こそが日本の田園風景の美だった。稲穂ロールが田園の美に転じるには今暫くの期日を要するのだろう。
果たして欧州でも牧草ロールを白いシートで覆うようになっているのだろうか。そうだとすると欧州の人々さえも違和感を持つに違いない。日本では積み藁の光景は既に消えてしまった。田園の季節の美の一つの喪失である。稲刈りの時に同時に機械で藁(厳密には茎)を切り刻んでしまう為で、ここにも「農具」に変わる「農機具」の影響がある。
飼料米の作付けは、栄養価の高いトウモロコシのような飼料穀物の輸入における価格変動や調達リスクの軽減、田圃が耕作放棄地となることを抑制する、そういう一挙両得の効果があるらしい。加え日本の食料自給率の拡大にも貢献する。輸入穀物に頼る畜産は自給の対象にはならないからだ。
飼料米への転換は需要者である畜産農家の存在が前提となる。飼料米を作りこれを使用すると米農家にも畜産家にも補助金が出る。食用米より飼料米の方が手間がかからない点は農家にとっては朗報であろうが、祖父母が生きていたら嘆いていたろう事は想像に難くない。「牛馬に食わせる為に田圃に汗水垂らすとは何事ぞ。」と。
米を作らなくなった農家、畜産をやらなくなった畜産家、その事実に焦点を当てる事が先決かもしれない。畜産家は農家よりも後継者難、高齢化が及んでいないとは言い切れない。別物の違和感がそこにある。
<柚子採り> 2022.10.25
なんていう日だ。1メートルはあったろうか段差のある場所で回り道をするのが面倒臭くて飛び降りた。イメージとしては右足からフワッと優雅に着地するはずだった。一瞬の出来事である。気がついたら視界全てが空になっていた。右足は地面の応力を受け止められなかったのである。膝を打ち、手のひらを突き、そして右肩に体重が乗った。都合、三箇所にダメージを負った。手首の痛みがじわーっと増してくる。
一、二メートルなどかつて平気で飛び降りていたではないか。このような形で身体的な衰えを思い知らされるとは。都会にはそんなには段差は無い。あっても飛び降りない。コンクリートだらけで危険だし。山里には畑地や土手が直ぐ側にある。段差だらけである。昔の記憶が未だそこに染み付いている。その記憶で飛んだ。walking程度ではこの体重にかかるGを支える筋力はつかないのだ。それに若い時分より20kgは増量しているし。浅はかな行為であった。
午後からは右半身に痛みを覚えつつも熟れ気味だから柚子採りをやった。棘が刺す。予期せぬ方向から絡んできて刺す。脚立に登って背伸びしててっぺん近くのカボスに手を出す。足元がふらつく。朝方のダメージの影響もある。刺す度合いが増す。二メートルはある。ここからは飛べない。
上は諦めた。草地を移動する。なんだこいつは。いつの間にか膝下が真っ黒だ。針のようなくっつき草の種子がまるで毛が生えたように纏わりついている。はたいても取れない。棉のトレーニングウェアだったからくっつき具合は申し分ないのだ。浅はかだった。
毛玉取りでゴシゴシ擦り落とそうとするが返ってピッタリと張り付く。朝方痛めた右手首に更に負担を強いていた。鈍痛が更に増す。頭上から薄毛に棘が刺す。
なんていう日だ。
<ロングトレイル> 2022.10.23
地方移住についての内閣府のアンケート調査がある。「ほどよい自然で、意外と都会 そんな場所で暮らしてみませんか」と問いかけるとその気になるそうである。残念ながら佐伯地方ではこれは使えない。「自然のお陰で大変不便、それでもいいなら暮らしてみては」となってしまう。
だから当会は、「僻地は宝の山と海」と言い換えて当たりを待つことを考えた訳である。一旦この地に取り込む事が肝要なのである。殆どが逃げ出してしまうにしても、中には変わった奴が必ずいる。それがターゲットである。変わった奴は言い過ぎである。とにかく豊かな自然との対話が好きで不便こそが人間性回復の原点であると考えている人種という事である。
これに「埋もれた歴史民俗」のフレーバーを加える。更に興味津々な違う人種が寄って来るはずである。「埋もれた」というフレーズに食いつく人種が必ず一定数いる。それもターゲットになる。出来れば「密かに」という言葉を加えれば完璧である。「変な感じだが気にかかる」というイメージが出来れば成功である。
後はそこに住む人間をどう売るかという事になる。一番の魅力にしないといけない。人間は結局は社会的動物である。出会った人の印象でいとも簡単にイメージが覆る。だからこちらも「変な感じだが気にかかる」ようである事が大事である。それが無理というなら地元を語れるだけで十分である。とりとめもなく地元を語れるという事は地元を愛しているという事なのである。また会いに来たいと思うに違いないのである。だから地元の歴史民俗を学ばないといけない。
今、欧米発祥のロングトレイルが静かなブームになっている。日本ロングトレイル協会によれば、「歩く旅を楽しむために造られた道のことで、登頂を目的とする登山とは異なり、登山道やハイキング道、自然散策路、里山のあぜ道、ときには車道などを歩きながら、その地域の自然や歴史、文化に触れることができるのがロングトレイル」。九州には未だ国東半島にしか無い。まさに天空路とプロジェクトの活動はそこに通じるではないか。ひょっとして佐伯地方は二匹目を狙えるのではないか。移住の後押しにもなる。日がなぼーっとしているとそんな事を想うのである。
<自然林と人工林> 2022.10.21
昨日、N君に森林組合に関する意見を頂いた。こういう意見は当会の方向性を見極める為にも本当に有り難い。もっと広く意見を求めたいところである。だから今朝のwalkingでの光景も違って見えた。最早先日のようには朝日は眼中にない。山の朝日は西から降りてくる、なんて気取っている場合ではないのだ。
道すがら光に照らされていく森林そのものをつらつら眺めていた。何とも単純な思考習性ではある。そこには人工林と自然林がせめぎ合っていた。日本の森林面積の人工林の比率は4割程度だが、この地方はそれを上回るかもしれない。人工林は杉と檜で七割を占めるが今その半数は50年超えの主伐期にある。もっとも成長の遅い檜は杉に比べて主伐期は十数年遅れる。
15年前の我が里の空撮が残っている。伐採したばかりの山も写っていた。今、そこは自然林に戻りつつあった。当時、植林を放棄していたという事である。人が手をかけずとも自然の再生力はすごい。何しろ神様が手をかけている。その側に植林した杉の若木が成長途上にあった。こちらは自然林に包囲されてしまって窮屈この上ない。いわば樹木が神と人の代理戦争をやっている。自然の再生力は強靭である。人工林は人が手をかけないと簡単に息の根を止められてしまう。
里の神様を思い出した。そう言えば未だ挨拶をしていない。walkingを切り上げて鎮守の杜に登って手を合わせた。流石、神の領域である。自然林が勢威を奮っていた。
人側も何かと考えねばならない。シャワーを浴びて林業白書に首っ引きとなった。お陰で屋根に干していた布団の取り込みを日が落ちるまで忘れていた。山の夜は冷える。早速、山の神様の嫌がらせだ。
<朝焼け> 2022.10.19
やはり山には朝焼けは無かった。山に阻まれて日の出の位置が高過ぎるのである。光の大気通過角度が大き過ぎて、豊予海峡で見たような神々しい赤々とした朝日と空は、残念ながら山では目にする事は出来ない。夕焼けも同様ということになる。山に朝焼けや夕焼けがあるとするならば、山では白く焼ける。
山仲間のH君に山用の体を作って来たかと問われ首肯出来なかった。促されるように今朝から体力作りのwalkingを始めた。その道すがらの自然からの最初のメッセージが朝焼けだったという訳である。同じ山仲間のT氏からはシーズンに向けて体力作りに余念がないとの一報があった。N氏及び同窓のT君には未だ連絡が取れずにいる。自分が一番遅れている自覚はあるものの、若くはないとの自覚が欠落していた。致命的かもしれぬ。
さて、その朝日が顔を出す前に振り向くと、光は既に後ろの山の上から静々と里に降りて来ていた。山の朝日は東から登るのではなく西から降りてくるのである。
前回帰省時と同じ”朝の徘徊者達”に遭遇し再会の挨拶に及んだ。”徘徊道の三大美峰”、左間ケ岳、石鎚山、米花山はいつも通り泰然としていたが、これら徘徊者を「ちっちぇえ奴ら」と何だか小馬鹿にしている風でもあった。
その麓を貫く番匠川の水面はこの時期辺りから峻烈な質感に変わる。大気が峻烈だから山も川もそのように映じる。自然の風景が切れ味鋭いのである。山にはそういう季節が訪れていた。
一時間も歩いていない。体幹の左右バランスがよく無い。特に下肢の左側がきしみ始めた。N君のお薦めの気功術が頭に浮かぶ。効くに違いない。踵には、案の定、靴擦れができた。楽しみにしていた天空路がやや遠ざかってしまった。
<ふるさとへの道> 2022.10.15
実家へのトンネルを抜けると秋桜が土手一杯に可憐に咲き誇っていて、いたく感動した。年々歳々旅の疲れ度合いが酷くなるが今回は秋桜に救われた気分だ。秋桜が好きな理由は本にも書いた。
横浜から神戸まで約500km、新東名高速は制限速度120kmで山中を縫う。山は紅葉のそぶりも見せなかった。今回は追越車線は走らない、車を追い越さないと腹を決めた。クルーズコントロールのお陰でアクセルもブレーキもほぼ使わない、実に安心安全平安なドライブだった。
気持ちにも余裕が出てくる。面白い事に気づいた。走行可能距離の表示がガソリンは減っていくのに段々増えていく。家を出て一般道を走っている時は確か690kmほどだったが高速を走っていると800km程に増えたのである。高速度一定走行による燃費効率が最大に達したという事であろうか。
神戸での乗船時には思わぬ余録があった。10/11から始まった全国旅行支援の適用で40%off(八千円返金)、地域クーポン最大三千円がそっくりもらえた。想定外の出来事である。安全運転のお陰に違いない。
そうなるとフェリーからの光景も格段に良く見えてくる。昨晩の明石海峡もドラマチックだったが今朝の豊予海峡は神々しいほどに感動的だった。古代よりこの海峡を幾多の民が渡り、あるいは通過していったのだろう。その時分と全く同じ光景を見ている事に更に思いが深くなる。ここは太平洋への道でもある。我が佐伯地方への道でもある。佐多岬に朝日が登り豊後水道が輝きを増してきて帰省を早吸日女神社の神々が歓迎してくれているに違いないと思った。
九州上陸後10号線でひたすら佐伯を目指す。この調子だともっと感涙に耐えない思いに浸れるに違いない。犬飼を過ぎた頃から中の谷峠を越えて弥生大坂本あたりまで、何と前にも後ろにも佐伯を目指す車は終始ただ自分一人、10号線を独り占めしていた。感激というよりは浮かれた気分に冷や水を浴びせられたような。
土手の秋桜がそんな思いを払拭してくれた。ここは、”オカエリナサイキ”と受け止めるべきところだな。
<至福の時間> 2022.10.09
至福の時間というものがある。私のそれは医者や床屋などで順番を待っている時間、バスや電車など交通機関で移動している時間、妻の買物が終わるのを待っている時間、そんな些細な日常の中にある時間である。中でも妻の買物のそれが最大の至福の時間かもしれない。最も身近にある容赦ない私の時間の簒奪者自らに使用を保証された時間だからである。
これらの時間は一旦組まれてしまえば、自分では最早どうにもならない拘束時間だが、確実に自分だけに使用が許された時間である。何かに邪魔される事はまず無い。そこに他の予定を最早組み入れようのない確定時間である。自分で勝ち取り守らなければならない時間ではない。それなのに誰もが手を出せない私だけの時間だからである。
その時間をぼーっと過ごしている訳ではない。通常は読書をして過ごす。読書に集中するには丁度いいお膳立てなのである。今思えば通勤電車での往復の読書の時間に優る至福の時間はなかったような気がする。
とかく現代の時間の経過は慌ただしい。何かに急かされ何かをしなければと思わせる空気感があちらこちらに漂っている。人と同じ時間を共有せねば何とも安心出来ないのである。それは自分だけの時間とは相入れない装いの時間であって絶対的な開放感というものを有しない。最近、倍速社会という言葉を耳にする。時間への冒涜以外の何者でもない。
そう、だから天空路に登ろう。ここにも至福の時間が待っている。一旦、登ってしまえば邪魔するものは一切ない。日常の中で手に入るような至福の時間とは物が違う。思い切らねば、自分で求めなければ、手に入らないワンランク上の上質の至福の時間である。私が日頃手に入れているようなケチな至福の時間ではないのだ。
ただ、そのケチな至福の時間にこの記事を書いている。至福の時間とは何かに没頭出来る時間と言い換える事が出来るのかもしれない。
<恋の舞台> 2022.10.07
誰しも夏の終わりの頃に決まって思い出す曲があるだろう。「いそしぎ」、「夏の日の恋」、少々遅すぎるが、やっとそんな楽曲が沁みてくる季節を感じている。何しろ30度超えの尋常ならざる日々が今の今まで続くと音感覚も変調をきたしてしまう。本来であれば既に「枯葉」を味わっている季節なのだ。もっともこの歳でいまだに感傷的になれるのは悪い事ではない。
ただ、若者達はもう夏休みも終わって学業に戻っている。夏の終わりの恋も白けてしまって台無しに違いない。それほどに季節感のズレが甚だしくなってしまった。
夏の終わりになると必ず蘇って来るそのBGMを担うのは決まって昔からパーシー・フェイス楽団であった。ポール・モーリアでもレーモ・ンルフェーブルでもフランク・プルーセルでもヘンリー・マンシーニでもミシェル・ルグランでもない。何とも古い話だ。恋の思い出はこの楽団なくしては成立しない。昔から小洒落た音楽には馴染みがない。田舎もんと街もんとのセンスの違いは今も付き纏っている。
夏の恋は圧倒的に海浜に軍配が上がる。山ではない。だから天空路は恋の舞台としてはあまり機能しない。それでも天空路から海に降りてくればいい。素晴らしい海が恋の舞台を用意している。だが言っておこう。山の恋は海よりも清冽で確固としたものになる。山は海に比べて孤独感が濃くなるからである。
残念ながら山の恋に相応しい楽曲は世に少ない。「雪山讃歌」では男同士で誤った恋に落ちかねない。ここでも海に軍配が上がるのである。それでも天空路は特別限定の恋にうってつけである。そんな希少な恋の為にも天空路を拓いてあげたいではないか。
恋に関してはブログ・海の向こうの風景「恋の舞台」に詳しい。きっと、特に男性諸氏は、共感してもらえるに違いない。
<山の音> 2022.10.06
朝からうるさくて仕方がない。マンションの敷地内や周囲の公園の夏草は放置する訳にはいかない事は重々承知である。それでもあの電動草刈機の音をどうにかして欲しい。ウオオオオオーン、ヴオオオオオーンと、刈る草の密度に合わせて音が抑揚を繰り返す。その不協和音は常にフォルテッシモなのだ。歯医者のキウィーンという治療音や黒板に爪を立てるキッキキキーという音や蚊のウオーンという羽音の方が未だ我慢出来る。電車内の音と同じレベルらしいが電車内の音は気にならない。機械音も生活の一部になると身体は折り合いをつける。
今日は業者が朝から敷地内の草刈をやっていて、しかもやや高層のマンションだからやたら反響する。草刈り”鎌”を使ってもらえぬものかと思う。春先に実家で使っていたその鎌の音はザッザッと草を喰むようにむしろその音は心地よかった。
くどいが電動草刈機の音はまるで爆裂音だ。暴力的にがなり立ててくる。そこまで嫌う事はなかろうとは思うが読書や音楽鑑賞やテレビ視聴中に限って襲ってくるから始末が悪い。この愛しい時間は外に持って逃げられないのである。
雨がそぼ降ってきた。季節の変わり目の雨は悪くない。土の匂いを微かに立ち上らせて木々や地表やあらゆる物の上に静かに触れ落ちるその音が何とも心地よい。草刈が終わった後だから尚更格別に心地よい。やはり自然が作る音に勝るものはない。
昔はこのような機械音は一切なく自然音のみだった。神経を荒立たせる騒音はなかった。ただ人々は自然が鳴動するのを偶に聞いた。山や地面が鳴動する。それは畏れ多い音であった。機械音を一切止めてみたらいい。今でも鳴動が聞こえるに違いない。
川端康成に「山の音」という小説がある。初老、といっても未だ60歳そこそこであるが、主人公は地鳴りのような山の音を聞き、死期への恐怖を覚える。人はその心持ちによっては自然の中に何とも不思議な音を聞くことができる。
天空路に登ろう。機械音は消えて自然音が迎えてくれる。そぼ降る雨の音に劣らぬ心地よい多彩な音が聞こえて来る。心を洗ってくれる音である。不思議な音にも出会えるだろう。だから天空路を拓こう。
<挽歌> 2023.01.05
閉校した母校の小学校の校歌を思い出せないと書いた。同級生が「私も思い出せない」という。その後、歌詞は分ったもののそれでも譜面がないのでメロディは未だ蘇ってこない。別の同級生も同じようなもので今そのメロディを探している始末だ。卒業して以来、意図せず校歌を不要なものの範疇にしてしまっていたのだ。だから思い出せない。その歌詞やメロディが堅苦しく仰々しく、つまり古臭く現代感覚にそぐわないからだと言い訳をする訳にはいかない。母校の象徴であり、ないがしろに出来ない精神の柱になっていたはずなのだ。
時代を反映したいのであろうか、よもや生徒への迎合でもあるまいが、最近では流行歌手に頼んで校歌を作詞作曲してもらうケースも増えて来た。閉校になった我が母校は東西の小学校が統合されて本匠小学校として再スタートしたが、その校歌はシンガーソングライターの伊勢正三が作った。なかなかいい歌でこれなら卒業後も歌い続けてくれるかもしれない。いかついイメージを纏っておらずメロディも心に染みる。
それでも今の自分の中には当時の校歌の方が校歌らしいと思う天邪鬼がいる。今風は何だか優し過ぎて平和的でそこには厳格な教師や校風の喪失感が強い。行事の度に歌っていた校歌は背筋を伸ばしてくれたような気がする。その校歌を思い出せないのだから情けない。
母校は帰省してもいつもそこにあった。そこに後輩たちが同じ校歌を歌い継いでいた。それが当たり前だと思っていた。小学校だけではない。中学校も閉校した。母校は残すところ高校と大学ということになるが、小中学校ほどの母校愛はない。学び舎での懐かしい光景や思い出の凝集度合いが格段に違うのである。少年が大人になっていく苦さ故でもある。
校歌は挽歌になってしまった。それを思い出せないとは何だかやるせない。