HIPOPO の時空探偵団<昭和は遠くになりにけり>

時空探偵HIPOPOこと、染矢靖正です。昭和34年から42年頃の本匠村を中心とした思い出を、呟きます。

[昭和は遠くなりにけり1]      2022.09.24

昭和48年7月14日(土)晴

岡山駅23時8分発の日南2号に乗車。

友人4人に見送られて。

大学が夏休みに入り、アルバイトも一段落した。初めての帰省だ。3ヶ月振りだが、心が落ち着かない。寝台車で横になり、車窓に移り行く夜景を眺めながら、トリスの小瓶を口にする。明日は満月だ。7月15日(日)10時5分、佐伯駅到着。

改札を抜けると、父がいた。

少し痩せた様な気がした。2人で、駅前の[どさん娘]に入る。4月に、岡山に向かった時も、父に送って貰い、[どさん娘]でラーメンを食べ、別れた。ラーメンの味が懐かしい。車で、実家に向かう。本匠に入ると

懐かしい景色の連続だ。青い川、緑の山々、実に懐かしい。実家の400m手前の小高い丘に本匠東小学校がある。

久しぶりに、父と寄ってみた。

懐かしい校舎を眺めていると、

12年前の小学校の入学式が甦る。

[昭和は遠くなりにけり2]      2022.09.26

時は昭和36年4月11日(火)晴

昨夜の雨もあがり、絶好の入学式日和。

父は、朝から、ひげを剃り、12年前の

結婚式に使った礼服を着て、慣れないネクタイを結ぶ。母は、黒紋付き。

小学校に制服がないので、私は、寿屋で買ったズボンと上衣。

さあ出発だ。

少し、ぬかるんだ道を、

水溜まりを避けて、歩く。

学校に着くと、友達が、普段見たこともない綺麗な、可愛い服を着ている。

凄い。負けた。勝った。と思いながら、式場に入り、先生指示に従い、席につく。緊張する。席を離れ、跳びまわる

奴が、先生に捕まり、席に戻される。

入学式が始まる。校長先生の話、長い。

来賓の祝辞、長い。眠い。あくびが出る。[早よ終われ] と念じる。

やっと、終わった。それから、一階の教室に入る。担任の先生は、親戚の緒方美千代先生31歳。生徒は41名、依って1クラス。当時は1クラス49名が上限か?

上級生に手を引かれ家に帰る。夜は、家族6人で、ささやかなお祝い。

明日からは、勉強を頑張ろうとは、思わなかった。父は、焼酎の瓶を抱いて寝ている。春の夜は更けていく。桜は散り、

春の夜は更けていく。

[昭和は遠くなりにけり3]      2022.09.29

昭和48年7月16日(月)晴

昨夜は、家族4人で小宴会。

すっかり飲み過ぎた。10時に目が覚めると、父は仕事に出かけていた。

彼は、私が高校1年の5月に、自動車免許を取得した。45歳の時だ。3年程やったミシンのセールスマンを辞めて、ダイハツのセールスマンになった。ミシンのセールスマン時代は、バイクで佐伯市まで通っていた。ミシンの販売台数は、常にトップだった。算盤は1級、達筆、話は上手い。尋常高等小学校卒業のわりに、優秀な男だった。しかも、歴史好き。

11歳の時に、両親を亡くし、祖父母に育てられた。15歳で家長となり、林業に

従事し、家族を支えた。昭和19年、召集令状が届き、満州に。翌年10月、生きて戻ってきた。ダイハツでも、車を売りまくった。しかし、常に3番目位だった。

生き甲斐は、焼酎と選挙。村長選挙があると、必ず候補者の応援演説を頼まれた。話が上手い。1つの才能だ。

かなり、褒め過ぎた。

その夜、波寄の親戚の家でご馳走になった。母方の祖母の実家だ。親爺と息子と

楽しく飲んだ。すっかり飲み過ぎた。

おばちゃんが車で送ってくれた。

小学校の辺りで降ろして貰い、酔いざましに、歩いて帰った。実家の手前に橋がある。下を宇津々川が 流れている。

この川で泳いだり、魚を捕ったりした。

懐かしい遊び場だった。

橋から川を覗き込む。満月なので、川の

流れが良く見える。深さは、40、50cm位。すると、川から子供の声が聞こえた。酔った頭で、良く目を凝らして見ると、5、6歳位の男児と女児が、手を繋いで川の中を歩いている。時間は、夜の

10時過ぎ。2人とも裸だ。目で追う。

視線を感じたのか、2人が振り向いた。

月明かりに照らし出された顔を見て、

驚いた。紛れもなく、幼い日の私と

光代だ。2人は、私を見て、微笑んだ。

夢かうつつか、幻か。私は、勇気を振り絞り[遅いから、早く、家に帰りなさい]

2人は水の中に消えた。

[昭和は遠くなりにけり4]      2022.09.30

昭和34年9月26日(土)潮岬に上陸した台風15号(後に伊勢湾台風と呼ばれた)全国に甚大な被害をもたらした。死者行方不明者5000人を越えた。25日より佐伯地方も大雨が降り続いた。

当時、私の実家は、県道35号と宇津々道が交わった辺りの番匠川沿いにあった。県道より、3m程低い土地に建っていた。家の玄関から川迄は、5m程。大正の初め頃に建てた二階建の家だった。26日の未明に、川の水は、玄関に入ってきた。家族は、6人。その時点で、父は兄を背負い、母は姉を背負い、県道の上にある親戚の家に連れて行った。

親戚の家には、60代の老夫婦しか、居ない。父が直ぐ引き返したが、水嵩はみるみる増していった。曾祖母さんは、70歳、動けない。私と婆さんの運命やいかに?


[昭和は遠くなりにけり5]      2022.10.01

父母が兄姉を背負い出た後、曾祖母のフミは、落ち着いて、大きな風呂敷に、位牌、数珠、写真等を手早く纏め背中に背負い、私を促し、二階に上がる。水は、一階の畳を濡らし始めた。この明治23年生まれのフミは、常に冷静で的確な判断の出来る女だった。父が2階に上がって来た。先ず、フミを背負い一階に降りようとした。[保、靖正が流されない様、柱に括って行け]と言った。父は、私を長い帯で柱に括り、フミを背負い1階に降りた。

その後、5分程で水は2階まで達した。

母は、流木で足を切り動けないらしい。

フミを避難させた後、父が来た時、水は、2階の窓迄来ていた。父は、県道脇の大木にロープを括り、自分の腰に巻き、窓から、入って来た。水は、私の腰の上迄来ていた。腰のロープを私の胸の辺りに2重に巻き自分の身体に括り付ける。最後に、私を括っていた柱の帯を切る。窓から出て、ロープを両腕で手繰り、県道の端の石を掴み、助かった。

家は、もう住めない。暫く、母の実家で暮らした。昭和35年4月、前の家から、500m程離れた宇津々川上流の高台に

新居を構えた。そこは、10軒程の、

久保の前という集落だった。子供は15人

いた。そこに、私と同じ歳の子供は1人。それが光代だった。

[昭和は遠くなりにけり6]      2022.10.02

2017年秋、TVのある番組の、女の子に目が止まった。小1位の子。NHKEテレ[えいごであそぼう]厚切ジェイソンと

子供が英語の発音を学ぶ番組。

顔が光代に激似。特に目元が。

彼女の名前は、村山輝星(きらり)

2010年東京生まれ。昭和35年、夏の

太陽が、山間の川に照りつける。

2人の子供が裸で泳いでいる。

[みっこ、あがろう]男の子が叫ぶ。

[やっこ、あがろう]女の子が応える。

田舎では、小さな子の名前の最初の文字、ひらがなに、っ子、を付け呼ぶ習慣があった。やすまさは、やっこ、みつよは、みっこ、となるのだ。

2人は、大きな石の上に上り、暫く陽にあたる。身体が暑くなると、又、川に入り遊ぶ。日がな、これを繰り返す。

光代の家は、私の家から100m程下流の対岸にある。家族は6人、子供は兄3人

と彼女。引っ越しの日から、光代とは

意気投合(?)し、仲良しになった。お互いの家に入り浸りになり、雨の日も風の日も雪の日も、片時も離れず、一緒に遊んだ。しかし、楽しい日々は、一年程で

終わりを迎える。

続きは、明日の心なのだ

[昭和は遠くなりにけり7]      2022.10.03

光代の父親は、亀男39歳、身長は180cmを超えていた。見るからに精力的

な男だった。なかなかの野心家だった。

母親は、久代35歳、部落でも評判の美人だ。

気立ての良い、優しい女だが、芯はしっかりしていた。絵に描いた様な、美女と野獣夫婦だった。

光代は、母に似たのだ。亀男は、40歳を前にして、一大決心をした。観光地別府にて、飲食店をやる選択をした。彼は、若い頃から、7年程佐伯で料理の修行をしたことがあった。親方と喧嘩して、店を辞めた。その後、宇津々の実家に帰り、林業に従事していた。親戚は、皆、反対したが、彼の性格からすれば、反対されるほど、燃える。家族も、渋々従った。

昭和36年4月3日、光代の引っ越しの日が来た。彼女も私も、小学校にあがる日はそこまで来ていたのに。子供には、大人の事情は、解らない。理不尽な別れだ。

桜吹雪の舞う、麗らかな春の陽光の中、荷物を載せたトラックは、動き始めた。

運転は、亀男、真ん中に、久代、左端に光代。3人の兄達は、一足先に、汽車で

別府に向かった。私は、道の山側から、光代に手を振る。彼女も、トラックの窓から身を乗り出して、手を振る。手を振りながら、走ってトラックを追う。

砂煙りを上げながら、走り去り、いつしか見えなくなった。私は、砂煙りの中に茫然と立ちすくみ、空を見上げた。

    天道是か非か!

[昭和は遠くなりにけり8]      2022.10.05

光代が去って、心の中に大きな穴が空いた。何もする気が起こらない。

裏山の大きな木に登り、別府の方向らしい山や空を眺める。空に彼女の笑顔が浮かぶ。[男のくせに、元気を出して、又いつか会えるわ]と語りかけてくる。

光代家族が住んでいた家に、新しい家族が引っ越して来た。光代の親戚らしい。

4人家族だ。遠目で見ると、男の子が2人いる。上の子が、同じ歳ぐらいに見えた。入学式の日に、彼がいた。同じ歳だ。すぐに声を掛けた。KY君。

空気が読めない子ではない。それから仲良くなり、KY君の家に入り浸るようになる。子供は、遠慮しない。特に、私は。父親は、国鉄マン、佐伯駅に勤務していた。国家公務員だ。私の家に比べ、かなりの金持ちだ。見たこともなかった、興味深いおもちゃ、マンガが沢山あった。[Yちゃん、見ていい?触っていい?]返事も聞かずに、見て、触って、もう、夢中だ。宝の山を堀当てた。

全て俺の物だ。違うKY君の物だ。

頭の中に、光代はいなくなった。

学校が終わると、家にランドセルを置きKY邸へ。生まれて初めて文明に触れた様な気がした。KY君には興味はない、彼のおもちゃ、本、漫画にのみ興味があるのだ。暫くは、この生活が続く。

[昭和は遠くなりにけり9]      2022.10.06

光代が別府に引っ越す半年前、

昭和35年10月中旬に、大きな災難が

私に降りかかる。一年前に、助かった命が危うい。5歳上の兄が学校から戻り、2人で、裏山に、風呂の焚きつけに使用する、杉の枝を集めに行った。

暫く枝を集めたが、直ぐに嫌になり、兄から離れ、松の木に登った。高さ4m位の松だった。半分を過ぎた辺りの枝を掴んだ瞬間、枝が折れた。身体のバランスを崩し頭から谷に落ちた。一瞬の出来事だ。兄は気づいていない。谷にあった、大きな岩に、右側頭部を打ち付ける。骨が凹む感覚があった。意識が消える。

落ちた距離は約5mか?落ちて、10分位して、兄が私がいないのに、気づいた。

探して、谷の岩の上に倒れているのを発見。母に知らせる。母が私を背負い、

400m程離れた石堂医院に運んだ。

先生は、無線で、救急車を要請。

意識はない。西田病院に搬送された。

入院して、3日経っても意識は戻らず。

このまま、消えてしまうのか。

靖正の運命やいかに?

[昭和は遠くなりにけり10]      2022.10.07

西田病院に入院して5日目の未明

意識が戻った。ここはどこだ?

頭が割れる様に痛い。木の枝が折れ谷に落ちた、記憶が甦る。首を動かすと床に誰か、寝ている。良く見ると、母だ。[かあちゃん]と呼びかけると、母が驚いた様に、起き上がり、私の顔を手で包み込み、直ぐ先生を呼んだ。

先生は、病室に入るなり[生き還ったか良かったのう]と母の肩を叩く。

頭が痛いことを告げると、直ぐに薬を持って来させた。それから、一週間後、点滴と薬で、痛みもかなり和らいだ。

更に一週間後に、[頭の凹みは、時が経てば、少しずつ元に戻る。退院するか。]

20日程の入院で、家に帰った。

1ヶ月は、家で静養した。

また、光代と遊べるまで、回復した。

痛みも、ほぼなくなった。

子供ながらに、生きていると実感した。

12月のある夜、不思議な夢をみた。

谷に落ちている最中に、大きな鳥が、凄い速さで、頭にぶっかり、飛び去った。

そのまま、右側頭部が岩に当たる。

しかも、2日続けて、同じ夢をみた。

どういうお告げなのか

続きは、次回に。

[昭和は遠くなりにけり11]      2022.10.09

なぜ鳥が頭にぶっかった夢を見たのか?

なしかリンゴか?ブドウか?

松の木は、根元から少し、谷側に曲がっていた。私は、谷を正面に見ながら登った。落ちる時は、顔が下を向いていた。

岩を見ながら落ちた、すると、顔が岩にぶっかり、まず助からない。つまり、死ぬのだ。落ちてる1秒位の間、記憶はしっかり残っていた。考えられる事は一つ。右から、鳥が低空で飛び右側頭部にぶつかり、正面を向いていた頭が左を向いた。そのまま、右側頭部から、岩にぶつかった。鳥が来たのは、偶然か。それとも、何者かが、私を助ける為に、鳥になって現れたのか?なしか

いずれにしろ、命拾いしたのだ。

もう、暫くは災難は、訪れまい、と思っていた。甘かった、3度目の災難が、すぐそこまで来ていた。

昭和36年、第二室戸台風が我が家を襲ったのだ。

第3の災難は、明日の心なのだ!

[昭和は遠くなりにけり12]      2022.10.10

昭和36年9月15日(金) 12時頃台風18号は

かなりの速度で鹿児島県の東の海上を

北北東に進んでいた。この台風は昭和9年の室戸台風に、進路が酷似していたので、後に第二室戸台風と呼ばれた。

気圧は925hpa、風速は、最大80mに達していた。本匠地区でも、風雨が尋常ではなかった。午後2時過ぎ、電気も消えて、裏山の木々は、地面につかんばかりに揺れていた。雨も強さを増した。家族6人は、明るい縁側に、身を寄せて踞る。縁側の木の雨戸が、雨と風で、不気味な音をたてている。突然、地鳴りが聞こえた。木々が倒れ、裏山が崩れ、土砂と共に、直径2m程の岩が2つ、玄関の瓦を割り、縁側の1m向かいに落ちた。私は、もうおしまいだ、と思いながら、雨戸の隙間から、山側を見ていたのだ。

2つの岩が落ちてくるのが、スローモーションの様に見えた。玄関の瓦は、30枚程割れたが、全員無事だった。玄関の一部と庭は、土砂に埋めつくされた。

翌16日午前9時に室戸岬に上陸し、その後近畿を抜け、日本海に抜けた。

翌日から、部落の人達が総出で、木々や土砂、岩の撤去作業が始まった。3日がかりで、ほぼ終了した。皆様に感謝、感謝である。家屋の被害は、少なかったが、心の傷は大きかった。

心の傷が癒えた頃には、昭和36年も終わろうとしていた。家族6人は、強く生きていた。昭和37年の最初の陽が昇ろうとしていた。

[昭和は遠くなりにけり13]      2022.10.11

昭和34年9月から昭和36年9月迄の2年間に3度死ぬ目に遭った。でも、死ななかった。なしかこれは、自分の意志で生きたのではない。[何者かによって、生かされた]と考えれば、納得がいく。

それ以来、私は、その2年を[驚異の2年]と呼んでいる。

話は変わるが、アイザック・ニュートン

をご存知だろうか?そう、あのリンゴの彼だ。

彼が、ケンブリッジ大学の教職員の1665年(23歳)、ロンドンでペストが流行した。それで、ケンブリッジ大学が閉鎖された。彼は、休暇をとり、故郷のウールスソープに帰った。それから約18ヶ月、今迄取り組んでいた研究に没頭した。その結果、万有引力の法則、微分積分法、光のスペクトル分析という[ニュートンの三大業績]を成し遂げた。

この1665年から1666年を[驚異の諸年]

[創造的休暇]と呼んでいる。

このペスト休暇がなければ、彼の三大発見はなかったのです。

横道に逸れて、申し訳ありません。

私は、ニュートンのファンなんです。

私も子供の頃は、ニュートンと同じで

体が小さく内向的で目立たぬ少年でした。それから50年間、大きな災難、事故等に遭う事もなく、そこそこの人生を歩んだのです。ところが、57歳の時、大きな災難が、襲って来ました。

既に昭和も終わり、平成になり24年の歳月が流れていました。平成の災難の話は明日の心なのだ

[昭和は遠くなりにけり14]      2022.10.12

平成17年10月、入社29年目の私は、ワコールの本社にいた。主流ではないブライダルドレス企画販売部の管理職をやっていた。主流は、女性下着の会社だ。

50歳を過ぎ、将来に不安を抱いていた。

そんな時、会社から早期退職の話が出たのだ。対象は、50代の正社員が対象だ。通常の退職金プラス給料4年分という条件だ。家で、妻と話しあった。


[俺も来年の誕生日で52歳になる。今回の早期退職に応じようと思っているが、どうだろう?]妻の返事は、[あなたの人生だから、あなたのご自由に(52)]

52歳に掛けた、この返事に感動した!!

辞めることにした。

ベンツ6台分の退職金を貰いワコールを去った。会社が1人につき、100万円払い、次の仕事探しをパソナに依頼してくれた。私は、保険の仕事がしたかった。

保険の仕組みが知りたかったのだ。

2ヶ月、失業保険貰い、平成18年6月に外資系のAIG生命保険に入社した。

続きは、次回の心なのだ!!

[昭和は遠くなりにけり15]      2022.10.14

平成18年6月1日、AIG生命入社。

6月1日から6月30日迄、大阪の京橋にて

研修。基礎を繰り返し学ぶ。研修修了後、京都支店に配属。私の中心商品は、[外貨建て年金保険]と決めていた。

中心は、米ドル、オーストラリアドル建ての年金保険。10年物がメイン。入社から4ヶ月で、優秀新人賞を貰う。

前の会社の先輩、同僚を中心に、契約を取りまくる。しかし、すぐに、訪問するお客様が居なくなる。当然、飛び込み営業を展開。1日100軒を訪問する。2、3ヶ月、契約の取れない日が続く。だんだん

嫌になる。誰もが通る道だ。そこで、ターゲットを絞り込む。私の好きな京都大学の教職員を狙った。昼時、京大の学生食堂で、教授、准教授、講師の情報を

学生から得る。集めた情報を基に、研究室をまわる。部屋に入ると、その教授、准教授の著した本について話したり、質問をしたりする。理系は、解らないので、文系の先生のみを攻略する。

3、4回訪問すれば、顔見知りになる。

保険の話は一切しない。先生と飲みに行く関係を築く。そこまで行けば、契約を取ることは、そんなに難しくない。

先生に、染矢と話していると、楽しい、面白い、と思わせることが大事だ。

1件契約が取れると、その先生の知り合いの先生を紹介して貰う。その繰り返しだ。当時、先生3000人、事務職員2000人。半年で、20人位の契約を取る。

入社1年経った頃、東京海上日動にいる大学の後輩から、電話があった。

京都支店の人事副部長をしていた彼と会う。収入の安定しない、生命保険から、

収入の安定した損害保険の仕事を勧められた。具体的には、自動車事故の損害賠

償の交渉の仕事だ。私は、もともと、交渉は大好きだった。駆け引きが面白い。

生命保険の業界も、ある程度、解った。

損害保険の勉強をしてみようと、思い。

東京海上日動に転職することを決めた。

続きは、次回の心なのだ。

[昭和は遠くなりにけり16]      2022.10.23

すっかり忘れていた。

2007年(平成19年)5月1日、東京海上日動に入社した。滋賀県の近江八幡支店。交通事故の損害賠償部隊は12名。担当エリアは、近江八幡市、草津市、守山市、甲賀市。この仕事は、原則、社会経験を積んだ50代の中途採用者が担当していた。しかし、会社の管理職は、総合職の20代から40代。東大、京大、早慶が多い。

私の上司も、京大、慶応卒(部長、課長)だった。

仕事の内容は、自動車保険の契約者が起こした交通事故の被害者の方の怪我の

損害賠償交渉(人身事故)。車の損害賠償は、女性が担当。勿論、両者が連携を取りながら進める。6月に、市川市で

一週間の研修があった。損害賠償の基礎を学ぶ。覚えることが、山程ある。

*損害賠償法、民法、労働災害保険、自賠責保険の知識、医学の基礎知識、自社の自動車保険の内容等。常に1人が100から120件の事故を抱えていた。交渉は、基本、面談、しかも夜が多い。

当時、日本の交通事故は、年間約90万件。死者6400人、負傷者110万人。

いずれにしろ、ハードな仕事だ。

心を病む人もいた。。入社6年目に入った頃、身体全身に痺れを感じ始めた。ある日、病院に行った。MRIで全身を調べて貰った。結果、首の骨が何十年か前に折れていた。それが、痺れの原因。[何か心当たりはないか?]と訊かれた。あれしかない。

6歳の転落事故だ。まさか、今頃、しかも、医者は[良く生きていたな]と言う。

染矢の運命やいかに

続きは、次回の心なのだ。

[昭和は遠くなりにけり17]      2022.11.06

10月23日16:27に16話をお届けして、

2週間経ち、忘れていた。

遅くなり、申し訳ありません。

2012年7月に、大津日赤でMRI検査を受けた。頸椎の骨が折れている、とのこと。一日も早く、手術をするべきだ

との診断結果だった。

頸椎(首の骨)は、7つの骨で出来ている。

英語では、cervicalという。上から

c1、c2、・・・、c 7と呼ぶ。

c1は環椎、c2は軸椎と呼ばれ、他の5つの骨とは、形が違う。c1の骨にc2の歯突起と呼ばれる円錐形の骨がはまっている。この仕組みで頭が左右に回るのだ。

私には、歯突起がなかった。というより、50数年前、折れたのだ。

c1とc2が固定されてない為、左右に動き、脊髄神経を圧迫し、全身が痺れるのだ。しかも、脊柱管狭窄症もあった。

今まで生きてきたのは、奇跡的だと

医師は言う。恐らく、首の筋肉が強靭で、ギブスの様な役割をしていたのだろう、という見解だった。それが、加齢と共に、筋肉が弱くなり、ギブスの役割が

弱くなり、骨が動き出したらしい。

いずれにせよ、早く手術をしないと、危ない。当時、東京海上に、来られていた整形外科の先生に相談した。

先生曰く、[MRIの画像を見た限り、即、手術すべし。わしの知り合いの、腕のいい医者を紹介する。そいつは、口は悪いが、頸椎の手術では、日本でも、3本の

指には入る。すぐ、電話して、診て貰いなさい。]

口の悪い、腕のいい医者のもとを尋ねた。染矢の命は、繋がるのか?

[昭和は遠くなりにけり18]    2022.11.09

口の悪い、腕のいい医師は、高橋先生。

1983年に京都大学医学部卒業。

脊髄手術が専門の整形外科医師。

当時53歳。ある病院が、高橋先生を

センター長に招き、脊髄手術専門の

部署を4、5年前に立ち上げたらしい。

2012年7月の暑い日、予約して

高橋先生に、診察して貰う。

180cmはある長身の先生だ。

MRI画像を持参し、見て貰う。

[染矢さん、出来るだけ早く、手術した方がいい。]先生は、具体的な手術方法を

淡々と説明した。[私は、頸椎の手術を何百回もやって来た。99%成功する自信があるが、残り1%は開いて見ないと解らない。今、1年先迄、手術の予定が入っている。しかし、貴方の為に、10月から11月にかけて、予定を入れますが、どうしますか?][先生、お願い致します。先生に私の命を預けましょう。]

病院を後にした。

家に帰り、家族に説明する。

妻は、首の手術は、怖い、何かあれば

取り返しがつかない、と消極的だ。

最後は[貴方に任せる]と言う。

後日、病院から電話があり、11月6日

入院、7日手術と告げられた。

東京海上に勤めながら、手術、リハビリという選択もあったが、9月30日で退社すると決めた。5年5ヶ月の勤務だった。

約1000件の交通事故を担当した。

5万円から1億円の補償迄、幅広い

交渉を経験させて貰った。

夏の終わりに、東京海上を去り、

首を洗い、頭を丸め、遺言状を書き、

入院の日を迎えた。

[昭和は遠くなりにけり19]    2022.11.14

2012年11月6日、予約していたタクシーが、自宅に来た。私、妻、息子3人で乗り込む。運転手さんは、40代の女性。

病院に向かう。

途中、紅葉の名所があるので、少しまわり道をして貰う。[家族で見る紅葉は、これが、最後になるかも]私が言う。       運転手さんは、すぐに否定した。
[大丈夫ですよ。手術が成功し、後何十年も紅葉見れますよ]私は、思わず[有り難う。生きて、来年も紅葉を見ましょう]約1時間で病院に着いた。


手続きを終え、病室に入る。4人部屋だ。牢名主に挨拶する。[新入りの染矢です。明日、首の手術をします。宜しくお願いします。]期せずして、拍手が起こる。病室をセッティングして、妻と息子は、

帰った。暫くして、高橋先生が、病室に来られた。[染矢さん、出家しましたね。体調はいかがですか?]

[体調はすこぶる快調です。心に一点の

曇りもなし。まな板の上の鯉です。明日、宜しくお願いします。]

頭を下げ、上げた時、高橋先生が神様に

見えた。私は、確信した。

明日の手術は、成功すると。

窓の外を見ると、西の山に沈む太陽が

笑っていた。


[昭和は遠くなりにけり20]      2022.11.29

2012年11月7日(水)の朝がきた。

昨夜は、シャワーを浴び21時に消灯。

1枚刈りの頭を撫でながら、羊を数えた。288匹までは覚えていたが。

運命の1日が始まった。朝飯は無し。

8時過ぎに、妻と息子が来た。

娘は、26歳、教師になって4年。

息子は22歳、就職も決まった。

もし私に何かあっても、十分生きていける。8時30分に、看護師が3名、ストレッチャーを押して来た。2人に別れを告げ、病室を後にする。手術室に入る。

高橋先生がいた。私の側に近づき、

[染矢さん、眠れましたか?]

[はい、羊を288匹数えて、ぐっすり寝れました。]同僚の医師に、口が悪いと評判の高橋先生は、少し笑っていた。

しかし、すぐに真顔になり

[染矢さん、今日も完璧なオペを心掛けます。貴方はゆっくり眠っていて下さい。4時間後にお会いしましょう。宜しく。]

全身麻酔が効きはじめ、意識が遠退く。

残念ながら、私は、腕の良い、口の悪い

先生の手術を見ることが出来なかった。

もし、見ることが出来たならば、あまりの手際の良さと、技術力に驚嘆の声をあげたに違いない。

後頭隆起からC7棘突起上に12cm長の正中縦切開を加え、項靭帯を同方向に切開した。C2棘突起先端を筋付着のままエアドリルで切離し、C1後弓C2後弓の筋付着を骨膜下に剥離し展開する。こんな手順にて、手術は順調に進んで行く。

C1、C2は頸椎の一番上の骨と二番目の骨。9時に始まった手術は、既に1時間を経過していた。この段階までは、完璧な手術であった。

※写真の一部は、ぱくたそ、pixabayより